うわごと

僕のマリ

お願い私の知らない言葉でしゃべらないで

 寒い。裸足にヒーターを当ててキンミヤのお湯割りを飲んでいる。ささくれた指先にニベアを塗り込んでいたら鼻血が出てきた。生まれてこのかたずっと貧血なのに、貴重な血液をシンクに流した。

今日は帰りしなにカルディに行って初めてコーヒーの試飲をもらったけど甘くて、我慢して飲んだ。我慢して飲むってなんだろう。紅茶が切れたので明日買う。コーヒーも紅茶も無糖がいい。午後の紅茶シリーズは甘くて飲めなかったけど、大学生くらいの時に無糖が出て嬉しくてずっと飲んでいた。

大学生といえば三ヶ月だけ在籍していた幻みたいなバイト先の大学生の子といまだに飲みに行ったりする。仲が良くなったきっかけは私がピクシーズのTシャツを着ていたから。早く夏になってまたTシャツを着たいな。

今年は忙しいけどフジロックは行きたい。去年一人で行って最高だった。新潟でちゃっかり日本酒の試飲したりね。

再来月に鹿児島帰るの楽しみ。生まれは福岡だけど、本籍は鹿児島に置いてある。鹿児島はいつものんびりしてて、火山灰を回収する用のビニール袋がポストに入ってて、訛りはきついんだけど人がみんな大らかで、食べ物がおいしくて味噌汁まで甘い。子供の頃から甘い醤油で育ったからいまだに甘い味付けが好きだ。鹿児島中央駅は駅ビルに観覧車がぶっ刺さっている。指宿のほうは本当に最高。羽田空港から鹿児島空港に着いた時のあまりのこじんまりさに安心する。寒いし、南へ南へ行きたい。

今年はちょっとした文学イベントに登壇するので(本当にちょっとした、家から10分くらい、近い)、訛りを少し矯正しないといけないかもしれない。国語の時間に教科書を順番に一行ずつ朗読した時は全然気にしなかったこと。国語の教科書読みたい。新学期に真っさらな教科書を貰ってその日に全部読んじゃう癖は卒業するまで直らなかった。

 

映画のような我が世界を想えば

ちゃらんぽらんだが、これでも一年前はいわゆる外資系大手企業に勤めていた。期間は丸2年。

在学時に紆余曲折あり、大学四年生にして47単位を残して周りの人間に「この人留年するんだな」とうっすらした同情を引いていたが、恐らく、内定が出たことによって(大学から内定者が出たのが初めての企業だった為)卒業は決定した。

周囲が内定を取り、研修や内定者懇親会に赴いたり免許合宿に行ったりしている間も私はスタジオに篭り、ライブへ行ったり出たりして、ますます憐れみと蔑みの視線を浴びる。馬鹿にされるのも慣れていたし、軌道から外れれば異物として見られるのは自然な事だとは分かっていたので特に気にしなかった。

大学の図書館に足繁く通っては卒論用のナチスドイツについての文献を読み漁って、暗澹とした気分になったりして、割と忙しく過ごした。

 

四年の12月に何気なく応募した企業の選考に行ったら通ったので、就職することにした。特に何の感慨もなかった。

 

内勤希望だったが、外勤となる。社員3000人で同期が50人ほど入ったが、半年と経たないうちに半分が辞職した。研修でわりと定期的に本社で顔を合わせるのだが、会うたびにガリガリに痩せてゆく同期がいて、「大丈夫?」と聞いても一切弱音を吐かないのがまた怖かった。

ストレスで入院する者、異動を繰り返す者も多く、今思えば墓場のような会社だった。

 

私は西東京エリア担当だったが、研修中は自宅の杉並区から二時間弱かけて高尾の僻地まで通っていて、朝8時前に家を出ても帰宅が21〜23時というバグが生じていた。「アフター5」なんていう幻のような言葉が憎かった。

 

教育係の「私たちが美しくなければ商品は売れません!」という言葉は重かった。

ブランドという威信をかけて商売をするのも気負うものが多かったし、重度のストレスで不眠症とか色々不具合が生じてきた。当時は薬事法が今より緩かったので向精神薬も易々と手に入り、シンガポールかどこかから運ばれてきた得体の知れないそれをミンティアのケースに入れて仕事中に舌で溶かしていた。痺れた愛想笑いが板につく。のちに完全に中毒になってしまう。今でもミンティアを見るとなんとなく、込み上げてくるものがある。

誰にも何も言わずに辞表を出してハイヒールとストッキングを捨てた春の夜は心地よく、もう中央線ではらはらと涙を流すこともないのだと自分に言い聞かせた。

つらいことは言葉にするのもつらかった、とアパートで大泣きした。

 

私はもう、保証も保険もいらないし、嫌われても馬鹿にされてもいいから、人生を全うしたい。

 

 

 

やけくその引用句なんて!

新宿のだだっ広い名曲喫茶で昨日接客したばかりのお客さんを見つけて、改めて世間は狭いなとひとりごちている。いちばん端の席に座ってから10分ほど、ウエイターに存在を気付かれなかったし、あの人もこのままわたしに気づかないでいてほしい。蝶ネクタイをして銀のお盆を持ったウエイターは大欠伸をしている。

ショートケーキは子供っぽいかなと誰に対してなのかわからない見栄を張ってアーモンドミルクのケーキを注文した。甘くて大きかった。

 

思った以上に今週に疲れて、午前中に宅配便を受け取った3分ほどの時間を除けば14時間くらい眠りこけていた。

起きてホットミルクを飲んで換気をして、今日こそは、と谷川俊太郎展へ。

閉館ギリギリに滑り込んで、早速真っ暗な部屋でモニターとスピーカー20台ほどに囲まれて言葉と音と光を浴びる。

しばらく部屋の真ん中に立って惚けていた。

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音楽はコーネリアス小山田圭吾

 

「朝が新しいなら夜は古いのかな?」

という手書きの詩が展示されていた。

そういえば、昨年六本木のスヌーピーミュージアムへ行った際の胸を撃ち抜かれるような愛まみれの翻訳が本当に良かった。愛あって孤独あり。

谷川俊太郎氏へ宛てた過去の葉書なども展示していたのだけど、住所が私が前に住んでいた家と至近でなんとなく嬉しくなった。

 

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「こうして言葉にしてしまうとどこか嘘くさい」ということが死ぬほどわかるし、ますます読むこと書くことに心酔してしまう。

 

オペラシティを出てから新宿区と渋谷区の狭間に立って、首都高をにらみながら散歩をした。薄着で歩く。

都庁、ルミネ2、ベローチェ、鳥貴族のまがい物、無印良品、路上ライブ、ティッシュ配り、免税店、バスタ新宿、脱毛サロン、ロッテリア、風俗案内。

先月帰省した時に、同い年の従兄弟が着ていたダウンが「カナダグース」というブランドの物だと初めて知り、(最近みんな似たようなダウンを着ている)というぼんやりとした意識しかなかった私を、親族で一人だけ東京都心で生活しているのに一番田舎者だと知らしめる事となった。

家にテレビが無くて一体何してんの?と聞かれても答えはずっと同じ、本を読んだり音楽を聴いたりしています、子供の頃からの夢想癖でいそがしく、テレビを見る暇はありません。カナダグースも、きっと祖母が亡くなっていなければ一生知ることもなかっただろう。夜中まで煌々とネオンを放つ街でひっそり呼吸をしている。

 

東京へ来て8年目の春がやってくる。

口に含んだ淡い酸味で、やっとお冷がレモン水だと気が付いた。

 

死相のつたが膝で絡まってんのか

風邪を引いて、寝たり起きたりしている。

インフルエンザが流行っているので若干の具合の悪さも見逃せないと思っていたら今月だけで3回も鼻の穴に綿棒を突っ込まれる羽目になった。

今朝も起きて病院に行こうと診察券を取り出して、電話予約が出来るというので音声案内に従って手順を進めていくと、9時すぎの時点で「あなた の 受付番号 は 63 番 、現在 9 番 の 方 が 診療中 です 遅れずに いらしてください 」と機械に告げられて終わった。

63番という果てしない数字に目眩がしそうになりながら、1時間ほど自宅待機して10時半過ぎに病院へ行ってみた。小児科も併設されているので子供が多い。

予約している旨を伝えると、受付の女性に「現在9番の方が診療中ですので恐らく12時半過ぎになるかと思われます」と言われた。

おい、9番何やってんだよ!と叫びそうになりながら、朦朧とした頭で「ええ…」と動揺していたら、熱を測らされて、「キャンセル待ちで繰り上げることも出来るので院内でお待ちください」と指示を受けた。

 

待合室のキッズスペースでは「しまじろう」のアニメが流れていた。

初めて見たしまじろうのお父さんがキャプテン翼みたいな頭身でマスクの下でグフフと笑ってしまった。

 

幸い15分ほどで名前を呼ばれて診察を受け、インフルエンザは陰性だが熱があるので油断厳禁、と抗生物質などの薬を処方された。美人の女医だった。

 

調子が悪いと果汁100%のジュースを飲みたくなるので買って帰る。

子供の頃、よく高熱を出してはハーゲンダッツを食べさせてもらったのを覚えている。風邪にはミルクたっぷりのアイスが良いというのが母親の持論だった。

乳・卵アレルギーだった名残か牛乳が苦手だったので、アイスなら食べられた。

 

そういえば数日前に派手に転んで膝から流血したところが痛い。

もともと右膝に二つ並んだ丸い傷跡があって(幼い頃に近所に住むたっくんに押されて転んだ跡)、その下に新たに大きめの傷が出来たので、膝に人面瘡が発生した。

瘡蓋が取れたらインスタグラムにでもアップしようと思う。

 

頭と膝が痛い。

昨日お客さんが「これをかけてください」と持ち込んだ「がんばれ!ヤングジャイアンツ」というレコード(という名のただの実況中継)が頭の中で鳴り続けている。店のディープさが極まった瞬間だった。

 

明日はこだまさんが阿佐ヶ谷へ降り立つ日らしい。嬉しい。

チケットは取れなかったがなんとか拝めないだろうか。

私がこだまさんを好きな理由は、どれだけ自分が傷ついて不遇の身に遭っても全て天災のように受け止める清さにある。

「書く」ことで心が浄化される、という感覚が改めてわかった。

 

独りよがりでいいのでこのブログもひっそり続けていこうと思う。

 

 

ずっとまともじゃないってわかってる

飛行機が離陸する前、陸にいる整備士にこっそり手を振るためにいつも窓際の席を取る。

福岡空港行き、ご搭乗案内、間もなく終了致します」という声を聞きながら慌てて機内に乗り込んだ。祖母が死んだのだ。

 

祖母の訃報を知ったのは病院の待合室だった。

その日は朝起きた時から調子が悪く熱があった。喉も痛い。身近にインフルエンザに罹患した人が何人かいたので、念のため病院へ行くことにした。

ベッドの中で病院の診察時間を調べるも、近所の内科や耳鼻咽喉科はどれも木曜定休だった。こんな仕打ちがあるとは、と思いながら、唯一診療していた少し遠い病院へバスで向かった。

 

熱と血圧を測って診察して、インフルエンザの検査をするので待合室でお待ちください、と言われて何気にiPhoneを眺めていたら、父からのLINEが入っていた。朦朧としていた意識が急に引き戻される。

「ばあちゃんが亡くなりました。」

あまりにも静かで急だった。

祖母が亡くなった事実もとより、「母を亡くした」父の事が気になった。

そしてあまりにも他感的な自分が嫌だなと思いつつも、視界がぼやけた。

 

結局インフルエンザではなかったが胃腸風邪でしょう、とのことだったので薬を貰う。

この時点で夕刻だったので、慌てて喪服やキャリーケースを買いに行き、仕事を休むこと、週末に約束をしていた人に断りの連絡を入れて、荷造りをして航空券の予約をした。怒涛の一日だった。

 

東京は雪が積もっていて、 飛行機が飛ぶか心配だったが、無事に離陸した。

天神で同じく県外から来ている兄弟と待ち合わせするべく、喫茶店で本を読んでいた。

ずっと気になっていた爪切男さんの「死にたい夜にかぎって」を読んでいたのだが、よく考えればなかなかの不謹慎である。

 

お通夜が始まるギリギリに式場についた。親族含め、お通夜には100人近くが集まっていた。

親戚どころか兄弟に会うのすら久しぶりだったので一瞬お互いが何者であるかを確認しあっていた。

 

祖母の死に顔は化粧を施されており、生前より10歳は若く見えた。

「スノーより盛れとるがね」と従兄弟が漏らす。確かに近年流行の加工アプリを遥かに凌駕する加工技術であった。

寿司を食べてビールを飲んで、翌朝も早いので式場近くのホテルに泊まった。

 

告別式は昼過ぎに行われた。

孫代表の弔辞を読んでほしいと頼まれたので、祖母との思い出を考えていた。

私は早くに九州を出てしまっていたので、たまに帰ると、祖母はレアなポケモンが出た時のように喜んでくれた。

去年、新卒で入った会社を辞めたので年に二回も福岡へ帰ってくることが出来た。最後に会ったのは8月だ。

「マリちゃんの、笑顔のかわいかね〜!」「うれしか、うれしか」と嗄れた声で繰り返していた。

 

祖母は享年92歳の大往生だった。

要介護状態ではあったものの、最後に会った時が元気で、だからこそ亡くなった報せが届いた時はただただ驚いた。死因は急性胃腸炎であったそうだが、あまり苦しまず、静かに息を引き取ったそうだ。

 

弔辞では、「別れは少し寂しいけれど、年をとったぶんだけ、ばあちゃんの人生は華やいだと思います。これだけの人に惜しまれたこの葬式がばあちゃんの人生を物語っています。これほどまでに幸せな最期をわたしは知らない。紛う事なきハッピーエンドでしょう。幸せな映画のエンドロールを眺めているようです。ばあちゃん無くして無かったこの人生を全うする事が最大の供養だと思います。これを以ってばあちゃんへの餞の言葉とさせて頂きます。」と読んだ。気障な台詞も恥ずかしくなかった。

頭のなかでは「漂流教室」が流れていた。告別式では、泣かなかったんだ、外を出たらもう、雨は上がってたんだ。

 

出棺の際に、幼い曽孫達が祖母へハイチュウをあげていた。3歳のひーくんがハイチュウを祖母の亡骸に投げつけていたので我慢できずに吹き出してしまった。節分と勘違いしたのかもしれない。そして献杯と称して祖母の好きだったコーラを葉に浸して口元を濡らしていたのだが、曽孫たちの大サービスで口元がコーラでビシャビシャに溢れていた。

式場のスタッフの男性が肩を震わせながら「お口元を拭いてあげてください」と言ったのでもう一度吹き出してしまった。

献花を親族一同で入れまくり、祖母が草花まみれになったところで喪主である叔父が「もう重かって!」と制止する。うちの親族は何でもやりすぎである。

 

火葬場へ移動して祖母を火葬して、納骨の儀を執り行った。

シリアスな場面でもおしゃべりな曽孫が「ばーばアッチッチっやねえ」と言う。恐らくアッチッチどころではないと思うが、小さな子供が沢山いると葬式も沈みすぎなくて良いなと思った。

 

夜はいつも親戚が集まる料亭で会食をした。座敷の壇上に祖母の遺影と納骨したばかりの骨壷が置かれている。

「湿っぽいんはやめて、楽しい宴会にしようば思います、お袋も賑やかな方が喜ぶんで」と言って叔父が献杯の音頭をとる。

 

酒豪一族はひたすら飲み続ける。

料亭の給仕の人が追いつかないペースで瓶ビールを開けまくる。ものすごい速さだ。

酔っ払いが続出すると共に、「誰か一曲歌えや」モードに入ってきた。

従兄弟のヒデ君が祖母の遺影に向かって「千の風になって」を熱唱し、

「ばあちゃん、おいはお墓の前で泣かんばい!!」と絶叫していた。

歌はめちゃくちゃ上手かった。

 

曽孫で最年長の18歳の男の子の計らいで、スピーチの最中に突然「ダンシング・ヒーロー」を流すので孫と曽孫全員起立して踊ろうということになった。

孫12人、曽孫14人の子沢山の家系でエグザイルとどっちが多いかわからないが、「これからも、もっともっと一族全員で頑張り…♪ティーティーンティン♪『ハイッ!!!』」という合図で全員立ち上がった。

わたしは音楽が鳴った途端に覚醒してしまった。自席からステージまで一目散に駆け走り全力でダンスした。それまで大人しかった私が突然ダンシングマシーンと化した。「マリちゃんどがんしたとね!」と叔母が叫ぶ。どうもこうも、踊りたいのだ。従兄弟や兄もステージに誘き寄せて全員で踊りまくる。喪服でこんなに限界の動きをするとは思わなかった。

自分を17歳で産んだナオちゃんに「かあちゃん、歌って!!」と呼ぶ曽孫。

柳川の荻野目洋子と化したナオちゃんもノリノリである

ふと目をやると臨月を迎えた従姉妹も大きなお腹で踊っている。踊るな。生と死が同時にきてしまう。

 

曲も大サビを迎える頃には祖母の遺影と骨壷を中心にサークルピットが出来ていた。サンボマスターのライブ以来のサークルピットである。

全員が飛んだり跳ねたりしているので遺影が揺れまくっている。

納骨したての骨を囲んでグルグル回っている様子は死者を弔う未開の地の部族の儀式のようだ。

踊り終わったあと、ストッキングが伝線していた。後半一緒に踊った3歳児はウーロン茶を一気飲みしている。

叔父達が「お前は気が狂ったんかと思ったばい!」と口々にした。「私には0か100しかないけん…」と言うしかなかった。

筑後弁と博多弁が怒号のように往き交い、全員ものすごい速さでビールを飲み干し、祖母の葬式は見事に狂乱の宴となって終了した。

 

酔い醒ましに一人で夜の田舎道を歩いて、歌ってみたりした。

街灯も少なくてお店なんてほとんどない。田んぼと寂れた生協がある。

自分が東京に住んでいる年月が長いのか短いのかわからなくなる。思えば遠くまで来たものだ。

 

いつも帰りの福岡空港は名残惜しいけれど、四十九日と初盆、奇しくも祖母の命日に入籍していた従兄弟の結婚式があるので、今年は忙しくなりそうだ。

 

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意味を求めて無意味なものがない

昨日友人と急遽飲みに行くことになって、安居酒屋でクダを巻いた。ハワイ帰りの友人にお土産をたくさん貰って、近況を話し合って、凍結した道路でズッコけそうになりながら二軒目を探していたらケーキ屋の上にマッサージ屋があった。30分3000円。

8時間に及ぶフライト後の友人と、多忙で疲労が溜まっていた私たちは「アリじゃない?」と喜び勇んで入ってみた。

扉を開けた瞬間、店の奥で茶碗と箸を持ち立っている半裸のフィリピーナと目があった。

仰天して固まっていると、奥の方からこれまたスリップにバスローブを羽織った巨乳のフィリピーナがズンズンやってきて、「ドゾー」と言った。

店の中は暖かかった。寒さと疲労が極限のところまできていた私たちは「ドゾー」と言われるまま、小さなソファーに誘われた。

ニッコリしながら「熱いお茶飲む?」と聞かれたので、即首を縦に降る。

出てきた熱いお茶は今のところ今年で一番美味しかった。

 

店内は異様なほど薄暗く、艶かしいムードが漂っていた。

熱いお茶を啜りながら、「完全に場所を間違えてしまった」「でももう引き返せないね」と友人と脳内で会話した。

巨乳フィリピーナが胸をたゆんたゆんと揺らしながら、借りてきた猫のような私たちに「30分3000円か50分5000円、どーする」と聞いてくる。どうするべきか。たった20分の差であれど、「一体何が起こるか分からない上での20分」だ。

私は元来マッサージが大好きなので、普段だったら1時間くらいはやってもらう。マッサージや整体に関しては中国人が殊更に良い。あの容赦ない力加減がちょうどいいのでクセになる。

しかしここはエッチな店だ。25歳の女はエッチな店に来たことがない。こんな駅徒歩0分の立地で、エッチな店があっていいのか。全然関係ない事を考えている間、友人が機転を効かせて「あー、手持ちが3000円しかないから30分でいい?」と聞いてきた。なんてファインプレーだろう。

「じゃあ30分で!」と言ってお茶を飲み干して、各々が別の部屋に案内される。

友人の担当が巨乳フィリピーナで、私の担当は半裸で賄いを食べていたフィリピーナだ。

 

個室に通されて、賄いフィリピーナと2人きりになる。上着を脱ぎ、他も「脱いで」と言われるので、セーターを脱ぎ、スキニーを脱いで、これでいいかと表情を伺ったら、妖しく笑いながら上の服とタイツと靴下も脱がされた。

半裸の女に半裸にされた。そしてうつ伏せになって薄いタオルをかけられた。

目を瞑ると、とってつけたように異国の音楽が流れ始めた。マンドリンの音と情熱的なボーカル。「こんなことになるとは…」と思いながらも為すすべもなく、されるがままにマッサージされた。

隣の友人の部屋から急に「パンパンパンパン!!!」と皮膚と皮膚がぶつかり合う音が聞こえてくる。不安になる。

私は私でうつ伏せでひたすらにマッサージされていたのだが、首のコリをほぐす段階で急に賄いフィリピーナが私の尻の上に腰を下ろした。

「半裸の」と先述しているが、どの程度かと言うとセクシーなスリップの下に丸見えのパンツを履いている状態だ。

私も下半身はパンツ1枚だったので(そうされたので)、尻・パンツ・薄いタオル・パンツ・尻みたいな感じで、布3枚を隔てているとは言え、布3枚しか隔てていないのだ。人の尻の質感をこんな形で味わう羽目になるとは。

多分男性客だったらこのギリギリのラインで攻めてくるのであろう場面だが、明らかに場違いの小娘相手なので完全に私の尻の上で休んでいた。

時折、私たちを揉みながら隣室同士、母国の言葉で話している。

 

やがて30分が経ち、最後に親の仇かと思うほど背中をパンパンパンパン!!!と激しく叩かれて終了した。服を着ている最中、また「熱いお茶いる?」と勧められたので貰うことにした。

 

入店した時と同じソファーでお茶を飲み、ベッドメイクをする女達を眺めていた。

無事に帰ってきた友人と黙ってお茶を啜る。会計でぼったくられるかもなあとボンヤリ思っていたら、提示通りの金額だった。無事に会計が終わった瞬間、友人が「2000円になっちゃった」と漏らした。気が緩むのが早い。

 

靴を履いて店を出て、階段を駆け下りて地上に降りた瞬間笑いが止まらなくて、「私たち馬鹿だね〜」と転げ回った。

検索するとバリバリのメンズエステ店だった。「ヌキなし」と書いてあるということは「ヌキあり」と同じ世界線に立っているということだ。

 

三次会のお茶をしながら感想を語り合っている時、驚愕の事実が発覚した。

私が笑いすぎて息も絶え絶えに「まず、部屋に入ったら服脱がされたでしょ?」と言うや否や「えっ?」と言う。

「いや、服もタイツも脱がされて上はヒートテックで下はパンツだったよね?」と聞くと、彼女は「パジャマに着替えたよ」と至極当たり前のように答えた。なんということだろう。着替えなど貰えずに全てを諦めて初対面の女に半裸にされたというのに。私だけ「羅生門」の老婆のように身ぐるみ剥がされた。

無慈悲な待遇にまた爆笑しながら、最終的には「でもマッサージの腕、普通に良かったよね」という賞賛に変わっていた。

こんなに笑ったのは久しぶりだと思う。

 

馬鹿な子供の気持ちで、あの店の小さな水槽に入った出目金になってみたいと思った。

 

ネオ・トーキョー

 

散々無理して元気に取り繕う意味もないと今更気付く。

 

酒を飲みながらする仕事で、服のブランドなんか知らない私が男に「それってユニクロですか?」と聞くと「マリ、悪いが俺はアルマーニしか着ないんだよ」とばつが悪そうに言われる。本当か嘘かは分からない。アルマーニしか着ない男に「僕のマリー」という曲を知ってるか、と聞かれる。知らない、知った方がいいよ、じゃあ検索してみます。

「甘く悲しい夢をみた 夢をみた」という歌詞だった。「夢」という言葉が好きなのでなんとなく気にいる。

 

真夜中に仕事が終わって、高架下にいるゴツゴツした優しい男の人におなか空いたでしょう、お疲れ様、と言われて出されたメキシコ風モツ煮が美味しかった。

ライムを絞って食べてね、と言われて緑色の柑橘をチュッと絞って少し高いカウンターで黙々と食べた。黄色いたまごが絵本みたいで、気が抜けて子どもの気持ちになった。豆が入っている。給食で食べたチリコンカンみたいだ。

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店内はレコードがずっと流れていて無音のAKIRAのアニメが映されている。

「ネオ東京」である2019年はもう来年なのだ。もうすぐで世界が終わる。ああ、AKIRA

午前3時、銀のスプーンを片手にしばらくぼけっと世紀末を眺めて、帰って冷たい水を飲んだらカラスが鳴いていてもう朝だった。