うわごと

僕のマリ

愛とはなんだかわかりません

年配の夫婦が営む古ぼけた喫茶店で夕飯をとる。おじいさんのほうは柔和で、おばあさんのほうは一見きついが、決してやさしくない訳ではない。寒くてかじかんだ手をさすりながら、「すばる」2月号に掲載されていた小山内恵美子『花子と桃子』を読む。とにかく怖くて、いい意味で本当に気味の悪い小説だった。人間の、女の感情の機微の描写がリアルで、何度も血の気が引いた。やがて注文した料理が運ばれてくる。付け合わせのサラダのドレッシングがあまり好きではないが、生の野菜はありがたい。向かいの席には年老いた女性とその娘とみられる中年の女性が座っている。コーヒーを二つオーダーして、飲んでいるのだが、どうやらお母さんのほうは認知症の症状があるらしい。狭い店内で、何度も席を立ってはよろよろとトイレのほうに行き、ドアを開けて何かを確かめている。そのたびに娘さんがたしなめ、店の人に謝っていた。

「なにがそんなに気になるのよ」

「いや、誰かいるかも、しれないし」

「いたところで別になんともないでしょう」

大きなため息をついて煙草をふかす娘さんは、ちょっとやつれて見えた。かさついた髪の毛がバサバサとゆれる。

わたしと向き合う形で座っている老婆と目が合う。ニコっと微笑む。わたしも目を細める。「なに笑ってんだか」と娘さんがまたため息をつく。

食後の飲み物をもらう。紅茶と言ったのにコーヒーだったが、まあいいだろう。ミルクと砂糖は使わないですよと下げてもらう。煙草に火をつけてぼんやりと壁にもたれる。鹿児島に住む祖母のことを考えた。

 


わたしの出身は福岡県だが、本籍は鹿児島県魚見町に置いてある。これは数年前にパスポートを取得するときに気づいた。鹿児島には母方の親戚が住んでおり、やはり父方の親戚より遠慮無く接することができる。子どもの頃は帰省するのが楽しく、十匹超えの犬たちと遊んでいた。

母の母、つまりわたしの祖母は早くに夫に先立たれ、未亡人となった。胃ガンだったそうだ。おじいちゃんの顔はわからない。祖母は昔から洋裁が得意で、自宅の隣に工場のようなものをこさえて、服を作る仕事をしていた。その工場に行くと、工場のおばあさんたちがおいでおいでと構ってくれて、よく黒飴をもらったものだ。

南訛りのきつい祖母は、独特のイントネーションでわたしを呼んだ。

「まーちゃん?」

mee too、という発音に近いだろうか。

その声を聞くと、力が抜けたような気分になる。昔も、いまも。

 


八十歳を超えても元気で、自分のことはすべて自分でやり、町内会の運動会に出るほどエネルギーに満ちあふれていた祖母だったが、三、四年ほど前に祖母と母と叔母で神戸に行ったときに、突然具合が悪くなった。すぐに病院に駆け込むも、半身不随の難病に罹ってしまったようだった。あまりにも突然のことに皆戸惑い、入院や治療に専念していたが、もっと困ったのが、同時にボケてしまったことだった。

 

入院中にベッドの横に座っている叔母に、「恵子、あんた赤ちゃんはどうしたん」と祖母は言った。叔母は、自分の孫のことかと思って話を聞いていたが、それにしても話の辻褄が合わない。よくよく聞いてみると、叔母が三十年前に産んだ「赤ちゃん」の話をしているのだった。叔母は三人産んでおり、その末っ子は今日どうしてるの、と聞いていたようだった。記憶が何十年も前に飛んでいるようだった。最初は驚いて何も言えなかったが、大阪育ちの叔母は「赤ちゃん?あんたの足下におるがな」と適当に流すことにしたんよね、と笑っていた。わたしの母に対しても同様で「えっちゃん、あんたまーちゃんが生まれたばっかやのに、こんなとこ来てからに」と怒っていたそうだ。そんなふうだから、自分のひ孫を見てもあまり実感が湧かないらしく、いつも不思議そうに眺めているのだという。

 


鹿児島の祖母の家に二年ほど前に遊びに行ったとき、すでにボケていて、わたしの顔を見るや否や「えっちゃん、来たんね」と言っていた。母とわたしは目元が似ている。やがて奥から本物の「えっちゃん」が顔を出し、「お母ちゃん、ちゃうやろ」とツッコミを入れる。わたしは祖母の寝るベッドに寝転び、顔を近づけ、「誰ね?」とにやにやしながら訊いた。祖母はぷっと吹き出し、「まーちゃんかあ」と言った。「そうよー、ほら」と言って手のひらを見せる。隔世遺伝で、わたしの手足は祖母そっくりなのだ。祖母はあははと笑う。

「まーちゃんは、何歳なんだっけねえ」「わたし?いま、四十歳」適当なことを言うと、「へー!結婚、してたっけ」と目を丸くしていた。「しとるさ。夫が三人、子どもが十人おるん」と言ったところで叔母に「なんでやねん」とつっこまれる。アハハと祖母が笑う。

祖母のエピソードは本当に面白くて毎回爆笑してしまうのだが、銭湯の帰りに他人の服を着て帰ってきた話が特に好きだ。ちなみにこれはボケる前の話である。全身違うコーディネート、しかも違う靴を履いて帰ってきた祖母を見て、叔母と母は青ざめ、「早く戻って返してこんね!」とこっぴどく叱ったが、当の本人は「これでいいんじゃないかな~」と抜かしていたそうだ。全然よくはない。他にも、買い物に行こうとバスを待っていたら、全然知らない爺さんと何故か意気投合して、買い物に行かずカラオケデートに興じたこともあるらしい。到底理解できへんわあ、と嘆く母たちではあったが、その一方で「マリにそっくりや」と口を揃える。大雑把で適当で脳天気。確かにそうかもしれない。わたしも何故かよく知らない人についていってしまう。いつも、危険より興味が勝る。これも隔世遺伝なのだろう。祖母がわたしを忘れる日は、くるのだろうか。この手のひらの形と、サイズの小さい足を見せれば、思い出してくれるだろうか。

 


昨年の正月に長兄が電撃結婚を発表して、たいそう驚いたのだが、今年の正月はなんと次兄の電撃結婚を聞かされた。一年のうちに二回も兄弟の結婚式があるなんて忙しい。次兄はとてつもなく激務で、それは同じ血が流れる者として誇りではあるけれど、いつ死ぬかわからない仕事なんて本当は怖い。子どもの頃から、兄たちがなんとなく普通ではないのはわかっていた。勉強もスポーツも人並み以上にこなす二人のことを、「あの○○くん」と大人は呼んだ。それが無能な自分にとってコンプレックスだった時期のほうが多かったけれど、いまはただ尊敬している。

 

とても乾いた家庭だと思う。文章やコラムだけ読んだら仲の良い、温かい家庭に見えるかもしれない。しかし、この年になるまで不和が多く、会話すらままならなかったのが現実であり、大人になったいまでも、おしゃべりな母がいなければ全員黙りこくってしまう。冠婚葬祭以外では連絡をとらず、兄弟全員が大学進学を機に実家を出て、離ればなれの場所で生活をして、精神的な距離も遠かった。個として生き、近寄ることもなくそれぞれの人生を歩んできた。知らないことのほうが多い。知らせていないことが、多い。わたしはどんな風に見えているだろう、とよく考える。四年制の大学を出て、就職した会社を二年で辞め、東京でのらりくらりと暮らしているわたしは、失敗作のようなものではないか。結婚も妊娠もしない、酒と煙草を好む長女は、九州ではとっくに淘汰されていただろう。

 


去年のお盆に帰省したとき、義姉と深夜に飲み交わした。

「マリちゃんはなりたいものとかあるの?」

缶チューハイを片手に視線を落とす。何も言えない。すこしの沈黙。

「就職、してた時期もあるんやけどね…なんか、色々あって病院で検査したら、ちょっと普通ではないみたいで、多分定職にはつけんのよね。なりたいものかあ、わからんねえ」

適当に濁したものの、恥ずかしかった。出来損ないを、病気のせいにした自分が。

義姉はとてもやさしい人で、

「いいよいいいよ、まだ若いんやから大丈夫!」

とわたしを励まし、流れる涙をハンカチで拭ってくれた。

風呂上がりの母が、短い髪を拭きながらソファーに腰掛ける。いつからそこにいたのか、ぽつりぽつりと義姉に話し出した。

 


「マリはね、変わっとるよね。ほんま昔っから。何するかわからんけん、小さいときは、いつもお兄ちゃんたちが後ろから着いていっとったなあ。親バカやけど、この子は才能あったと思うよ。絵もうまかったし、音楽も得意だったし、芸術的っていうん?そういうんはあったねえ。でもね、普通じゃないことって怖かったんよ、わたしたち夫婦にとって。どうにか普通にしたかった。だから何度もぶつかったし、この子の可能性をねじ曲げてきたんよ。わたしたちがそんなことせんで、のびのび育ててたら、今頃どんなんになってたんかなって、いまでもたまに思うんよ」

 

 

 

「ほな、寝るけんね」

シャンプーのにおいを残し、母は寝室へ向かった。

いまわたしは東京で好きなことしてるんよ、ほら、いちばん好きだったこと、お母さん褒めてくれたことよ、と言えたら、どんなによかっただろう。多分ずっと言わない。言えない。誰も傷つけたくない。家族に恥をかかせてはいけない。ずっと黙っていよう。かくしごとかくしごと、しあわせ?

 

 

夏に新しい命が生まれる。

次兄の結婚や待望の初孫に、いま両親はうれしい悲鳴をあげている。

人生が、動いてゆく。生活はよどみなく進む。駅前のコンビニでビールの空き缶を潰した。

光を纏い、春を待とう。