うわごと

僕のマリ

あてずっぽに路地を手繰って

土曜日の夜の新宿駅にいる。3番線のドアが閉まる。この一週間は色々あったなと思う。本屋lighthouse幕張支店まで往復3時間かけて行き、友達の門出や誕生日を祝福して、zoomで打ち合わせをして、原稿を書いて提出して、喫茶店でコーヒーを淹れて、前髪を切った。いつでも書くことと読むことについて考えている。何かを思えば書こうと思うし、何かを書いたらインプットしたいと思う。

この一年で、幸せのハードルがうんと下がった。会えるだけで、ただ食事をともにするだけで満たされた気持ちになる。加齢も影響していると思うが、お酒や煙草に縋ることも少なくなった。数年前の荒れ果てた生活が嘘のように健やかに過ごしている。

 

茶店で働いていると、友達が会いに来てくれる。時節柄行きづらい場所もあるが、ちょっとお茶をしに来るくらい誰が咎めようか。私は紅茶に生クリームを落としたものが好きだ。やっときた週末、私はお酒をちょびっと飲んで、夜更けまでゾンビゲームをやるのが幸せなのだ。

 

あなたのために蝶になって

パジャマのズボンをアイスクリームのチョコで汚してしまった。このところはパジャマを汚してばかりいる。この前は血だし、その前は肉汁だった。そのたびに洗って、替えて、を繰り返す。そういえば、まあまあ大人になるまで、バスタオルは身体だけを拭くもので、フェイスタオルは髪の毛を乾かすものだと思っていた。でも、多くの人がバスタオルで全て拭いていると知った時は衝撃だった。たまにその方法で全身を乾かしてみるんだけど、ちょっと変な気持ちになる。

 

最近は栗原康著『村に火をつけ、白痴になれ』を読んだのが大きな収穫だった。伊藤野枝という作家・アナキストの波瀾万丈どころかはちゃめちゃな人生を描いた作品なのだが、同郷であるのが誇りに思うほど(私にとっては)、生き様がかっこいい。筆一本で戦って、好きな男と好きなだけセックスをして、最終的には殺されてしまうけど、彼女の人生に悔いなどあっただろうか、と思う。言いたいことを言う、好きなことをやる、伊藤野枝の信念は強かった。ひとつになっても、ひとつになれないよ。

 

ここ二、三年でフェミニズム関連の本を読むことも増えていて、今はチョ・ナムジュ著『彼女の名前は』という短編集を読んでいる。『20ねんはたらきました』という国会清掃員の話を読んでいてふと、会社にいた頃を思い出した。朝早く出勤した日、トイレで清掃のおばさんに挨拶をしたら、その人が目を潤ませながら「私みたいな掃除のおばさんにも挨拶してくれるなんて」と言ってきたことがあった。自分の母親より年上に見えた。今までどんな思いで働いてきたのだろうと思い、胸が詰まった。

 

このところは酒量が減って、夜は温かいお茶を飲んでいる。でも、たまに嫌なことがあったら、キンミヤのお湯割りに梅こんぶを入れて啜ってる。この前気分が塞いでいたので、普段あんまり行かない映画館に出向き『バッファロー'66』を観た。DVD持ってるけど、何度も観たけど、映画館で観たかった。ヴィンセント・ギャロの姿勢の悪さとか、クリスティーナ・リッチのアンニュイな眼差しとか、短過ぎるワンピースとか。外で飲むホットチョコレートは美味しかった。春がすぐそこまできている。

 

 

 

 

自分の夢は現実だよ

年の瀬だ。この頃はいつにも増してぼんやりすることが多く、今この瞬間も電車を間違えて途方に暮れている。大井町を目指しているのに池袋に着いてグッタリ。この間は横浜から新宿に行こうとして鎌倉にたどり着いた。泣くかと思った。

 

今年は引っ越したり、連載が始まったり、10年くらい同じだったボブヘアーを卒業したり、猫の良さに気付いたり、色々あったなと思う。年始には意気揚々と「毎月、最終日に月報を書く」と始めたネットプリントもたった2回で終わり、誰に頼まれたわけでもないそれに若干の罪悪感を感じながら2020年12月30日まできた。ありがたいことに公私共に、いや主に「公」のほうが忙しかったので色々と出来ないこともあった一年。喫茶店と執筆業とたまに古本屋の仕事を手伝っている、3足のわらじを履く女となった。多分社会的な地位は低いが、あれ、もしかしてわたしは好きなことしかやっていないのでは?と気づく。こんな28歳を過ごすとは思わなんだ、いやしかし悪くないねとサッポロ黒ラベル片手に語りたい。

 

最近は日記集を一緒に作っている(と言うと共同作業のようだけど、実際は入稿、編集など原稿提出以外は全てお願いしている)伊藤さんが作ったLINEのオープンチャット「たぶん日記」に参加して、わりと毎日日記を書いて投稿している。匿名なので気楽なものだ。

 

来年の目標は……と言って達成できないことは絶対やりたくないのだけど、長らく寝かせていた『まばゆい』の刊行に力を入れたいと思っています。昨日も一昨日も書いていました。同じく柏書房の連載も折り返しを迎えたので、どんどん加速していきたいです。先日とある作家さんに連載の感想をいただき、非常に感激して、ああ頑張れる……と思いました。感想はちゃんと読んでます。読者なくしては成り立たないので本当にありがたい限りです。

 

2020年はいい出会いがたくさんあった。大事なものがよくわかった一年だった。泣いても怒っても傷ついても、このまま加速し続けて、誰にも真似できん生き方をしてやる。

 

 

 

 

 

なくなりそうな君が好きさ

こそこそ煙草を吸っても、怒られるときは怒られる。一人で決められた場所で吸うだけなんだから、割と地味でストイックな趣味なんやないのと反論したくなる。28歳になったが、相変わらず喫茶店や酒場に繰り出すのが好きで、それ以外のことはそんなに好きじゃない。ハタチそこそこの時はとにかく悪いことをしてみたかったけど、何にもならないのでやめた。人に優しくできない割には人一倍繊細で嫌だ。

町外れにある、かなりスピってるというかイっちゃってるおばさんの占い師に「会話力があるのに、自分の本当の気持ちを言うのが苦手」と言い当てられてうれしかった。全部本に書いてあることだとしても、インチキでもなんでもよかった。欲しい言葉だったから。そしておばさんはわたしの職業を当てた。占いって面白いね。

 

人に本を薦めるのが好きだ。幸運なことにそういう仕事もさせてもらっているが、個人的に誰かに本を貸すときは処方箋みたいに慎重に選ぶ。

知り合いの老夫婦にこだまさんの『いまだ、おしまいの地』をプレゼントした。発売日前日に書店へ駆け込み、2冊買って1冊あげた。「うれしいわあ」とほころぶ奥さんの顔に照れた。数日後に「この人明るくなったわね」と感想を伝えてくれたので、話に花が咲いた。70代の彼女はジャンル問わず新刊をチェックしていて、よくわたしにも本を貸してくれたりプレゼントしてくれたりする。先日は凪良ゆうさんの『流浪の月』を貸してくれた。「とても好きな本で、毎日寝る前にあるワンシーンを読み返すのよ」と言うので早く読みたかったが、このところ塞ぎがちで積読が続いていて、今日ようやく読めた。

 

心のやわらかいところを針でぷすぷすと刺されて膿がでるように、痛くて正しくってため息が出た。他人とは決してわかりあえない、わかつことの出来ない地獄のことを思い出してヒヤッとした。わたしはいい歳して、他人が他人であることによく絶望する。言葉を紡ぐ仕事をしているのに、今やそれこそが自分のすべてなのに、何故か人を前にすると思っていることや感じていることが口にできない。笑えるほどにできない。わかりあえないかもしれないという恐怖に支配されて口をつぐみ、言いたかった言葉がのどにつかえて行き場を失い、じくじくと痛む。

 

『流浪の月』にはわたしが言って欲しかった言葉が書いてあって、何度もその一文をなぞった。終盤、爪痕の目立つページがいくつかあって、この本の持ち主のことを思った。そのことだけでも胸がいっぱいになるような、切実な痕の付き方だった。共鳴している、と静かに熱くなる。半日で読み終えて、もう一度読みたいけど、自分の爪痕がつかないうちに早く返さなきゃと思い直した。

 

誰かに守られるのは心地いいけど、いままでの自分を壊してくれる人に出会えるしあわせを享受したい。わたしだって硬い鎧をぶち壊すほどの気概でやっていきたい。ずっと同じ場所にはいられないんだよね、と日毎に思う。シャワーを浴びたら焼酎のお湯割りを飲んで、好きな曲を聴きながら手紙を書いて寝る。酔っ払ってしまえば、わたしはもう!

ゆうちゃんへ


ぴかぴかの真夏、兄に娘が生まれた。この兄というのは5歳年上の次兄のことだ。冠婚葬祭のときしか動かない我が家のグループLINEが、ひっきりなしに通知を飛ばしている。「何グラム?」「立ち会ったん?」「名前は?」という両親の質問攻めに、絵文字をつける余裕もないのか、元からそういう人だったからか、単語だけで対応する兄。予定日の二日後に生まれ、母子ともに健康。名前の候補が二つあり、悩んでいる。東京出張から帰ったばかりの父である兄は、疫病の関係もあってすぐには会えないとのことだった。「コロナさえなかったら飛んでいきたい」という両親をなだめながら、自分に与えられた「叔母」という肩書きに感慨深くなる。両家待望の初孫が、マスクをした母親に抱かれている写真を何度も眺めた。姪の名前は、ゆうちゃん。

 

ほどなくして兄からLINEがきた。グループLINEではなく個人宛のものだ。アプリへの招待URLにアクセスしてアプリをダウンロードする。「子どもの成長をいつでも、どこでも、いつまでも!」というキャッチフレーズが浮かんできた。招待された者だけが見られる、写真・動画共有サイトだった。二枚の写真がアップされている。ゆうちゃんの成長を、このアプリでいつでも見られるということらしい。便利な時代になったものだ。


アプリを使っていると、メンバーがやや欠けていることに気がついた。兄の妻の両親が揃っていないのは(確かお義父さんが高齢だったからガラケーなのだろう)と察することができたが、うちの長兄とあちらのお兄さんが招待されていない。二人なりの配慮なのかもしれないが、なんともいえない気持ちになった。子どもができたときも、次兄は言いづらそうにしていた。「順番」というものを過度に気にしすぎではないか。そんなに気を遣われてもお互い苦しくなるだけだよ、と言いたいのをこらえる。だからこそ、未婚で二十代のわたしには気楽なのだろう。

 

ゆうちゃんはかわいい。最初は泣いている顔ばかりだったが、この頃はにこにこ笑った顔が多くなってきた。目の大きいところが兄に似ている。ピンク色のタオルに包まれて、うさぎのぬいぐるみがいつも傍らに置かれている。花柄の布団、水玉のガーゼ、レースのついた服。すべてパステルカラーのやさしい布。ゆうちゃんがあくびしたはずみで泣き出してしまう動画は何度見ても笑える。ご機嫌なときはよく声を出している。「あ」と「え」の中間のような音で、唇のかたちは富士山のよう。他のメンバーのログイン履歴も見られるのだが、いつ見てもうちの母が一番頻繁にログインしている。朝から晩まで、常に新作がないかチェックしているようだった。64歳の母はとにかくメール無精で、スマホに変えるのすら抵抗があったと言う。実際に、母から送られてくる文面にはいつも不自然な区点や改行、誤字が多い。その母が、老眼を凝らして一心不乱にスマホを見ていることを考えると、ゆうちゃんの偉大さを改めて思い知らされる。

 

「叔母と姪」という関係で真っ先に思い出すのが乗代雄介さんの『最高の任務』という小説なのだが、自分はあんな風に人を愛せるだろうかとふと考えたりする。わたしと母の姉である伯母は、気質が似ていることにこの頃気づいた。恐ろしいほどの記憶力と、果てしなく根暗なところに母や父とはまた違った血を感じる。姪とわたしは似るだろうか。少しでも自分に似ているところがあったら可笑しいし、正反対の人生を歩む可能性のほうが高い。ゆうちゃんの名前の漢字には「人を助ける」という意味があるのだが、そういう仕事に就いた兄らしいな、と聞いてもないのに勝手に感動した。名付けにはたいてい願いが込められていて、そんなのはエゴでしかないと斜めに構えていた時期もあったけれど、最近は人の名前の由来を聞くのが好きになっている。「幸せになってほしい」なんてフワッとした無責任なことは言わないし、生き方なんて自由だけれど、どうか助けられる人になりますように。助けを求められる人になれますように。やさしく育ってほしいけど、やさしすぎる人にならんでよ、と思う。叔母さんは我儘やけんね。

 
 

僕の呪文も効かなかった

 

休みは自分で掴み取るしかないので、スケジュール調整には余念がない。普段ちょっと無理してでも日曜日は休みたいしボケーっとしたい。

昨日は昼過ぎから喫茶店に行き、帰りしなにスーパーで買い物をした。中延の商店街にある喫茶店は繁盛していた。日記集の相方である伊藤さんとOK(スーパー)の話をよくしているのだが、昨日はおいしいと噂のOKのピザにありつくことが出来た。結構大きいけど五百円くらい。夕飯がピザというのは何歳になってもうれしい。私が好きな薄口のビールにもよく合う。土曜日は中華料理を食べに行ったのだが、キリンの中瓶が最近キツくなってきていて、青島にすれば良かった〜と思った。ビールの好みも年々変わる。

 

ピザとビールのあとはゲーム。『龍が如く』『ストリートファイターⅡ』『ファイナルファイト』『大魔界村』など。『龍が如く』の必殺技で、落ちている自転車に跨り、敵をちょっとだけ轢くやつがあって毎回爆笑してしまう。あと、主人公がヤクザやチンピラに絡まれる際に「おい待てよ」「ムカつくんだよ」とイチャモンをつけられるのだが、「おっさんはっけーん(笑)」「髪型だせえんだよ」という滅茶苦茶なものもあって毎度笑える。『ファイナルファイト』のエンディングの一節にぐっときた。

 

「おれはふつうにはいきられないおとこだ、、、、、いいならこい!だれにもまねできんいきかたをさせてやる」

 

お風呂上がりにアイスを食べて、深夜帯の静かな番組を眺める。享楽的な生活。沢山働いているので許して欲しい。

 

夜中2時、電池が切れたように眠る。いつも夜中に目が覚めるのだが、今日は一度も起きずに爆睡して気持ちよかった。久々に疲れがとれた気がする。ユニクロで売っているスーファミのTシャツ姿がなんとも間抜けだと思う。雨音で朝起きるも、結局昼過ぎまで寝こけて、起きてごはんを食べる。お菓子を食べながら録画していた『レディープレイヤー1』を鑑賞。ずっと何か食べている。

 

夏が好きだ。薄着、キッチンの蒸し暑さ、扇風機のリズム、夜中に飲む麦茶、知らない家の蚊取り線香、アイスコーヒー、真昼のだるさ。

今年は去年みたいにならなくても、新しい思い出で日々をぶち破って、誰にも何にも邪魔されずに生きたい。今までずっとそうだったじゃないか。

 

わたしを離さないで

脳がとっ散らかっているので、酒を飲みながらNetflixのドラマを流し見、スマホのゲームをやりつつ、思い出したようにYouTubeで音楽を聴くという、めちゃくちゃ生き急いだ人のライフスタイルを送っている。そんでまあ、まだ飲んでるのを忘れて、新しいチューハイ持ってバスタブの中でポメラで原稿とか書き始めるので酷いものだ。子供の頃は、この性質のせいで集団からひどくあぶれてしまったが(多分いまもそうなのだけど)、色んなことに気づくまでは自分の世界はとても楽しくて、一人でも最高と常に思っていた。

 

毎年この季節になると思い出すのは、無職になって何もかも放ったらかして日本中を旅していたこと。思いつきで飛行機やバスに乗って、何泊かも決めずにあてもなく歩き、道に迷い、知らない街の知らない景色をずっと目に焼き付けて、私は大丈夫、自由、何でも出来る、何も出来ない、と鴨川で泣いた。

 

今が強いというわけでもないけれど、若い頃は本当に脆かった。手にとったらほろほろと崩れるクッキーのような心で、常になにかに怯え、人の評価ばかり気にしてはSNSの言葉に揺らぎ、他人を妬む気持ちばかりが募った。自分と同じくらい人のことが許せずに、無闇に傷ついたり、傷つけあったりしていたように思う。

 

「変わった」とよく言われるし、自分でもそう思う。「よく笑うようになったよ」という言葉ひとつでこの数年のことを思い出して泣けるし、「いつかふっと死んじゃうと思ってた」なんて言わせたことを思い出しても涙が滲む。

わたしは今も恥ずかしいくらいナイーブで、すぐに痩せこけたり眠れなくなったりする。煙草も酒もやめる気ないし、相変わらず堕落しためちゃくちゃな生活だが、やりたいことで溢れてる。身体が足りない。

 

「同年代の女性が求めているような幸せは特に望んでいなくて」

 

今の環境って幸せで、毎日楽しい。でも、もっと加速したい、この静かな行為がずっと好きだったろう、狂ってもやれる、わたしにしか出来ない、そんな思いで頭がはじけそうになる。

 

少し落ち着くか、と桃の缶チューハイを飲みながら散歩をする。大好きな季節になった。