うわごと

僕のマリ

ゆうちゃんへ


ぴかぴかの真夏、兄に娘が生まれた。この兄というのは5歳年上の次兄のことだ。冠婚葬祭のときしか動かない我が家のグループLINEが、ひっきりなしに通知を飛ばしている。「何グラム?」「立ち会ったん?」「名前は?」という両親の質問攻めに、絵文字をつける余裕もないのか、元からそういう人だったからか、単語だけで対応する兄。予定日の二日後に生まれ、母子ともに健康。名前の候補が二つあり、悩んでいる。東京出張から帰ったばかりの父である兄は、疫病の関係もあってすぐには会えないとのことだった。「コロナさえなかったら飛んでいきたい」という両親をなだめながら、自分に与えられた「叔母」という肩書きに感慨深くなる。両家待望の初孫が、マスクをした母親に抱かれている写真を何度も眺めた。姪の名前は、ゆうちゃん。

 

ほどなくして兄からLINEがきた。グループLINEではなく個人宛のものだ。アプリへの招待URLにアクセスしてアプリをダウンロードする。「子どもの成長をいつでも、どこでも、いつまでも!」というキャッチフレーズが浮かんできた。招待された者だけが見られる、写真・動画共有サイトだった。二枚の写真がアップされている。ゆうちゃんの成長を、このアプリでいつでも見られるということらしい。便利な時代になったものだ。


アプリを使っていると、メンバーがやや欠けていることに気がついた。兄の妻の両親が揃っていないのは(確かお義父さんが高齢だったからガラケーなのだろう)と察することができたが、うちの長兄とあちらのお兄さんが招待されていない。二人なりの配慮なのかもしれないが、なんともいえない気持ちになった。子どもができたときも、次兄は言いづらそうにしていた。「順番」というものを過度に気にしすぎではないか。そんなに気を遣われてもお互い苦しくなるだけだよ、と言いたいのをこらえる。だからこそ、未婚で二十代のわたしには気楽なのだろう。

 

ゆうちゃんはかわいい。最初は泣いている顔ばかりだったが、この頃はにこにこ笑った顔が多くなってきた。目の大きいところが兄に似ている。ピンク色のタオルに包まれて、うさぎのぬいぐるみがいつも傍らに置かれている。花柄の布団、水玉のガーゼ、レースのついた服。すべてパステルカラーのやさしい布。ゆうちゃんがあくびしたはずみで泣き出してしまう動画は何度見ても笑える。ご機嫌なときはよく声を出している。「あ」と「え」の中間のような音で、唇のかたちは富士山のよう。他のメンバーのログイン履歴も見られるのだが、いつ見てもうちの母が一番頻繁にログインしている。朝から晩まで、常に新作がないかチェックしているようだった。64歳の母はとにかくメール無精で、スマホに変えるのすら抵抗があったと言う。実際に、母から送られてくる文面にはいつも不自然な区点や改行、誤字が多い。その母が、老眼を凝らして一心不乱にスマホを見ていることを考えると、ゆうちゃんの偉大さを改めて思い知らされる。

 

「叔母と姪」という関係で真っ先に思い出すのが乗代雄介さんの『最高の任務』という小説なのだが、自分はあんな風に人を愛せるだろうかとふと考えたりする。わたしと母の姉である伯母は、気質が似ていることにこの頃気づいた。恐ろしいほどの記憶力と、果てしなく根暗なところに母や父とはまた違った血を感じる。姪とわたしは似るだろうか。少しでも自分に似ているところがあったら可笑しいし、正反対の人生を歩む可能性のほうが高い。ゆうちゃんの名前の漢字には「人を助ける」という意味があるのだが、そういう仕事に就いた兄らしいな、と聞いてもないのに勝手に感動した。名付けにはたいてい願いが込められていて、そんなのはエゴでしかないと斜めに構えていた時期もあったけれど、最近は人の名前の由来を聞くのが好きになっている。「幸せになってほしい」なんてフワッとした無責任なことは言わないし、生き方なんて自由だけれど、どうか助けられる人になりますように。助けを求められる人になれますように。やさしく育ってほしいけど、やさしすぎる人にならんでよ、と思う。叔母さんは我儘やけんね。