うわごと

僕のマリ

永遠が欲しくって少し泣いてみた

ここはファミリーレストラン。かれこれ20分、料理がくるのを待っている。注文したのは、野菜がたくさん入ったスープと、チキン。安い赤ワインが空腹にしみる。プラスチックでできたグラス越しに店内を眺める。斜視乱視。店員は皆やる気がなく、しかしそれを責めるつもりは毛頭なくて、なぜなら時給千円なら妥当だと思うから。「研修中」というネームプレートを付けた店員は、全身武装した綺麗なOLだろうが、爪の長すぎるホームレスだろうが、平等に接客してくれる。テーブルの上のボタンを押す。33番が光る。ワインを追加して、オリーブ色の灰皿を恋しく思う。神様、わたくし、ヤニを喰らいたいのです。

 

本や映画や音楽って、それを受け止めるタイミングや時期によって捉え方が変わるし、響き方も違うから面白いのだと思う。子供の頃には到底理解できなかったことが、歳を重ねるにつれてやけに沁みたりする。些細な描写の意味もわかるし、追体験のように心に問いかけてくるものもある。だから、自分が好きな作品は何度でも、新しい気持ちで受け止めたい。

よく「また同じ本読んでるの」と呆れられることもあるけれど、他人にはわからなくていいから、一生大事にしていたい。そういうものがひとつあるだけで、生きる希望になると信じている。

 

 

「あとがき」が好きだ。

国語のテストでよく出てくるような「作者の気持ちを考えなさい」なんてことはどうでもよいが、本を書いた人が、どんな気持ちでその作品を生み出したかを知るのが、とても好きだ。小説でもエッセイでも、あとがきを読むだけでその作品の見え方が違ってくる。恋しさが募る。愛おしさが増す。大好きだ。

 

大学時代、ゼミの課題でよしもとばななの『キッチン』を再読した。何度も読んでいるし、と思ったけれど、単行本が見つからず、神保町の古書店で新潮社から出ている文庫を買った。

本編を速読して、ページを捲り、「文庫版 あとがき」という文章が目に入った。何気なく読む。

「感受性の強さからくる苦悩と孤独にはほとんど耐えがたいくらいきつい側面がある」

胸を突かれた。一瞬フリーズする。もう一度読む。感受性の、強さから、くる、苦悩と、孤独。ぶわっと、涙が出た。止まらなかった。泣き崩れた。

その頃は「感受性が強い」という自覚さえもなかった。二十歳くらいの頃で、東京での一人暮らしに浮かれ、毎日楽しいと思い込んでいる時期だった。いや、楽しいと思いたかった。憧れていた都会で華々しく、女子大生として暮らす日々のことを。しかし本当は、人間関係に苦しみ、常に不安を抱え、人の顔色を気にしては、呼吸が浅くなっていた。自分が美しくないこともわかっていた。そのことにずっと目を背けていたのに、唐突に現れたよしもとばななの文章に、寂しさを自覚した。しかし、それは自身を追い込むような凶暴な言葉ではなくて、やさしい何かに包まれるような気持ちになった。何もかも許されたようだった。その居心地のよさを、生涯忘れられないだろう。

 

27歳になった今でも、その一文が忘れられない。色あせるどころか、年々光を放つ。強く瞬く。同じような地獄を抱える人に教えたくなる。わたしは幸せだ。お守りのような言葉に出会えたことが。そういう仕合わせかもしれないけれど。

 

 

こだまさんの『夫のちんぽが入らない』は、単行本が発売されてすぐに購入した。あの頃は会社員で、ゆるやかに精神が病んでいたがその自覚がなく、Twitterの「裏アカ」で鬱憤を晴らしていた時期だった。リツイートか何かで回ってきた、「いきなりだが、夫のちんぽが入らない」という文章を読んで、深く興味を持った。本を買い、読む。読みやすい文体で、一時間と少しくらいで読み終わった。凄まじかった。想像していた物語ではなかった。女や妻としての負い目、教師としての苦悩、親との軋轢、ひとりの人間としての生きづらさが、一冊に詰まっている。読み終わった頃には重みが増していた。軽い気持ちで読むんじゃなかったと思った。

 

ほどなくしてわたしは会社を辞め、無職になる。病気だったんだ、と安心してのらりくらりと暮らす。診断書をもらっても、なんだか、ずるいことをしている気持ちだった。後ろめたさがいつでも付き纏った。実際にずるかったのかもしれない。わたしよりつらい境遇の人なんていくらでもいるのに、自分は限界だからもう何も出来ない、と嘆くことが。周囲からは腫れ物に触るような扱いを受けていたし、きっとわたしもそれを望んでいた。かわいそうな人になりたかった。そうでないと、生きていけないから。生きる価値がないと思っていたから。

 

 

こだまさんのことを調べているうちに、「文学フリマ」という文字が目に入った。応募してみる。知らない世界に足を踏み入れた。怖くはなかった。失うものは特になかった。

 

ブログを書いていたら、こだまさんに見つけてもらった。当時働いていた同僚のギャルに、こだまさんの本をおすすめした記事だった。そのギャルとわたしは対極の位置にいたけれど、職場が離れ離れになるときに本を勧めた。彼女はいつも、わたしが書いた「週報」を面白いと言ってくれる人だった。夫の仕事の都合で見知らぬ地に行く彼女に、お守りを持たせる気持ちで本を勧めた。後日送られてきたLINEには「勧めてくれた本、読んだよ。ちょー面白かったよ」と書いてあった。ジェルネイルやまつエクに熱心で、活字なんて縁がない人だったから、わたしにはそれがうれしかった。

 

同人誌を出し、クイックジャパンで記事を書く。わたしの書き手としての人生は、ほぼ、こだまさんの模倣だった。

憧れていた人と同じ道を辿ることで運命ぶるのはわたしの勝手だ。いちいち感動しすぎる。それが長所になることもあれば、短所になることもある。この通り、おめでたい性格だから、わたしはいつも、この日々のことをうれしく思っている。自分の人生を支えてくれた人と同じ雑誌、同人誌に書ける人生なんて、そうそうないじゃない、と。嫌われても好きだと思う。多分ずっと。

 

『夫のちんぽが入らない』の文庫版は、2018年9月14日に発行された。誕生日を目前に控えた、25歳のときだった。近所の本屋ですぐに買い、「特別収録 文庫版エッセイ」を読む。単行本のあとがき、途中から手書きの文字に変わるそれにも十分心を動かされたのだが、文庫版のほうが凄かった。

 

「ちんぽ」という言葉が入ったタイトルの本は、賛否両論のなかでも否定的な意見のほうが多かったのだと思う。タイトルだけで買わない、買いづらい、書店員も売りづらい、セクハラ、最低、メルカリで売りました。「ちんぽ」というたった三文字だけで、作家としての、作品としての命運をわけるのだから不思議だ。

 

文庫版のエッセイもまた、物語としてわたしの心に食い込んできた。本を出版してから、読者の声を聞いてから、夫に心の病を明かしてから。気軽に読むんじゃなかった。ファストフードの狭い喫煙席で、鼻水をすする羽目になるなんて。涙を堪える。目をかっぴらき、ごうごうと鳴るエアコンの風に、瞳の水分を吸い取ってほしかった。しかしそれはかなわない。

 

「ひょうひょうと生きているふりをしていたら、いつかそうなれるんじゃないかと思っていた」

 

無理だった。目に溜まっていた涙がボタボタっと本に落ちる。どんな気持ちでこの作品と向き合っていたかなんて、当事者にしかわからない。わからないけれど、心の隙間を見せられたようなこの一文の脆さが、一生わたしに寄り添うだろう、そう思った。

 

2019年の春、わたしとこだまさんは『でも、こぼれた』という合同誌に共に寄稿し、現在も同じ誌面に名を連ねている。わたしの気持ちはわたしにしかわからないから、他人の声なんてどうでもいいのだけど、これは奇跡のようなもので、もうこれだけで死んでもいいくらいうれしい。こだまさんの気持ちはわからない。どう思われているのか怖くなるときがある。でも、嫌われても構わない。憧れとはそういうものだから。

 

こだまさんとは、三回会ったことがある。主に文学フリマだ。三度目はQJ繋がりで、編集の方を介して会うことができた。会ったときにはもうすでにベロベロで、新宿の中華料理屋で、「こだまさーん!」とバカな小娘のような振る舞いで隣の席に座った。本当にバカになっていたので、トイレに行こうとして歌舞伎町を二十分ほど彷徨う失態も犯したが、距離的になかなか会えないから、酔った勢いで、好きなところを言った。

 

「ちんぽの凄いところ言いますね!いちばん安い指輪を選んで『貴かった』という綺麗な表現、出会い系のおじさんとの描写で『おじさんが紐持参、紐じいさん、ひもじい。心がひもじい』という言葉遊び…」

 

横並びに座っていたから、こだまさんがどんな顔をしていたかわからない。「ひもじい」という表現は、「東北」ならではなのかもしれませんね、というようなことを言っていた。終電を逃し、タクシーに消えた。それきり会っていない。

本当はもっと伝えたいことがたくさんあった。酔っぱらったバカ、というていでしか伝えられなかったのが、とても悔しいということを、こだまさんの共通の知人の方にこぼしたら「シラフで言えば、もっと喜ぶよ」と言われたのが強烈に印象に残っている。言えるだろうか。

 

好きなものが自分を構成する。

好きなものが自分のお守りとなる。

嫌いなものより好きなものについて話したい。生きた証を残したい。

 

真夏に待望の孫が生まれる両親に「よかったやん」と言った。それは、自分が産まずとも、親孝行をしてくれる兄への有難さの気持ちが存分に含まれていた。正直、助かった。

「うれしいけど、でも、自分の娘が産んだ子を抱いてみたいんよね」と母がこぼす。言えない。とても言えない。わたしはもう、生理も不規則で、結婚もわからず、子供が欲しいとも思わんくて、煙草も酒もやめられんし、だから、そういう幸せはあげられんのよ、と。結婚や妊娠という祝福がわたしを呪う。覆せるだろうか。それ以上のしあわせで。

 

ワインが渋くなった。空っぽの家に帰る。