いかれた慕情

僕の天使マリ

映画のような我が世界を想えば

ちゃらんぽらんだが、これでも一年前はいわゆる外資系大手企業に勤めていた。期間は丸2年。

在学時に紆余曲折あり、大学四年生にして47単位を残して周りの人間に「この人留年するんだな」とうっすらした同情を引いていたが、恐らく、内定が出たことによって(大学から内定者が出たのが初めての企業だった為)卒業は決定した。

周囲が内定を取り、研修や内定者懇親会に赴いたり免許合宿に行ったりしている間も私はスタジオに篭り、ライブへ行ったり出たりして、ますます憐れみと蔑みの視線を浴びる。馬鹿にされるのも慣れていたし、軌道から外れれば異物として見られるのは自然な事だとは分かっていたので特に気にしなかった。

大学の図書館に足繁く通っては卒論用のナチスドイツについての文献を読み漁って、暗澹とした気分になったりして、割と忙しく過ごした。

 

四年の12月に何気なく応募した企業の選考に行ったら通ったので、就職することにした。特に何の感慨もなかった。

 

内勤希望だったが、外勤となる。社員3000人で同期が50人ほど入ったが、半年と経たないうちに半分が辞職した。研修でわりと定期的に本社で顔を合わせるのだが、会うたびにガリガリに痩せてゆく同期がいて、「大丈夫?」と聞いても一切弱音を吐かないのがまた怖かった。

ストレスで入院する者、異動を繰り返す者も多く、今思えば墓場のような会社だった。

 

私は西東京エリア担当だったが、研修中は自宅の杉並区から二時間弱かけて高尾の僻地まで通っていて、朝8時前に家を出ても帰宅が21〜23時というバグが生じていた。「アフター5」なんていう幻のような言葉が憎かった。

 

教育係の「私たちが美しくなければ商品は売れません!」という言葉は重かった。

ブランドという威信をかけて商売をするのも気負うものが多かったし、重度のストレスで不眠症とか色々不具合が生じてきた。当時は薬事法が今より緩かったので向精神薬も易々と手に入り、シンガポールかどこかから運ばれてきた得体の知れないそれをミンティアのケースに入れて仕事中に舌で溶かしていた。痺れた愛想笑いが板につく。のちに完全に中毒になってしまう。今でもミンティアを見るとなんとなく、込み上げてくるものがある。

誰にも何も言わずに辞表を出してハイヒールとストッキングを捨てた春の夜は心地よく、もう中央線ではらはらと涙を流すこともないのだと自分に言い聞かせた。

つらいことは言葉にするのもつらかった、とアパートで大泣きした。

 

私はもう、保証も保険もいらないし、嫌われても馬鹿にされてもいいから、人生を全うしたい。