うわごと

僕のマリ

それさえも色褪せていくと思ったら負け

いままで使ってなかったAppleMusicになんとなく手を出してみたらその便利さに気づき、先週から色々と懐かしい音楽を掘り出している。ずっとiPodclassicを使っていたのだが、そういえばみんな化石を見るような目で見ていたなと独り言つ。使っているiPhoneもいにしえのSEなので「電源ボタンが上にあるー!」とびっくりされてしまうことが多い。わたしだってカメラのレンズが三つもあるiPhoneにびびっているのだから、あんまり騒がないで欲しい。機種変は面倒くさいしアプリもそんなに使っていないので、友人からは「らくらくスマホにしなよ」という助言を受ける。嫌だよ。親友がケータイの会社で働いているのですべて任せることにした。頼りになる。近頃電源がすぐ落ちるので、もうすぐ機種変することになりそうだ。持ちやすければなんでもいい。

 

こんなに晴れた日曜日はスピッツに限る、と窓の外を眺めながらずっと草野マサムネの歌声を聴いていたら、案の定澄んだ気持ちになってしまった。以前レンタルさんが依頼で同行したスピッツのライブの感想を「良さで疲れた」と呟いていたのも頷ける。的確な表現だと思った。良すぎても、それはそれで他のことが手につかない。そう、今日は一日の大半を音楽を聴く行為に費やしたのだ。多分六時間くらいは、ただ音楽を聴いていた。しかしそれだけではとどまらず、収納からベースを出して取り憑かれたように弾いた。しばらく弾いていなかったのであんまり覚えてないかもしれないと思ったけれど、感覚を取り戻してからは早かった。指がきちんと覚えていたので三時間本気でずっと弾いていた。おかげさまで気づいたら日が暮れていたし、かなり疲れた。でもこれは良い疲れ。

学生時代ずっとバンドをやっていたので(主にベース)、楽器が手に馴染むし改めて音楽が好きだと感じる。聴くのも好きだけど弾くのも好き。読み書きもこれに同じ。わたしの楽器の力量は、多分文章力と同じ程度だと思う。同じような熱の注ぎ方だったから、同じくらいの温度だろう。高校生のときに買ったベースはフェンダーUSAで、当時の自分にはすこし高かったけど後悔していない。好みの太くて真っ直ぐな音が出る。愛器。愛器なのに、ぶん投げたりこけたり突っ込んだりして、ボディに少しひびが入っている。愛器だから、血も涙も滲んでる。あまりにも青春だったから、ごめんね。

 

部活では本当に色々なバンドをコピーした。なかでもナンバーガールスーパーカーくるりなど、あの世代が多かった記憶。ちょっと難しいけど楽しかったのはandymori。もう一回コピバンやりたい。サンボマスターも最高だったし、モーモールルギャバンも「ユキちゃんの遺伝子」でワウ踏んで楽しかった。チャットモンチーはベースボーカルだった。くみこんの素晴らしい詩に毎度泣けた。「LastLoveLetter」を卒業する好きな先輩の目の前で演奏したとき、たった三分間のあいだに何度も泣きそうになって、そのたびに涙を振り払うようにあのリフを弾いた。「あれベース弾きながら歌えるのすごくない?」と打ち上げの席で言われたけれど、そんなことより泣かなかったほうがすごいでしょうと思う。「涙は人に見られて初めて輝き出すのです。」

 

 

七時間スタジオで歌い続けても枯れない喉、はもう無いかもしれない。どうしてあんなことが出来たのだろう。文化系なのに体力お化けだった。今はもう、あの頃ほどの体力はないから、弾きながら歌うのも難しいしれない。でも、熱が醒めないうちは大丈夫だと思っている。
MASS OF THE FERMENTING DREGSというバンド(通称マスドレ)のコピバンのベースボーカルが、本当に全力で演奏できて楽しかった。スリーピースで、ベースがコードを弾くのがちょっと珍しい感じで、それが新鮮で「かき鳴らして」いた。声域も自分に近いのか歌いやすくて気持ちよかった。今日はそのときのことをずっと考えて、静かに熱狂していた日だった。「ワールドイズユアーズ」という短い曲が、いまの自分の気持ちに寄り添っている。昔より歌いっぷりが良くなってる気がする。

 

https://youtu.be/qBfaDSKSzzE

 

基本的にエフェクター無し(たまに歪ませる時はサンズアンプ)、男のアン直スタイルがわたしの好みだった。素の音がいちばん良い。今日この日、また音楽への熱が再浮上して心がせわしない。


そういえばいつも、がに股でベースを弾いて歌ってた。漏れ出す情動を音に変えて放出する気持ちよさを忘れていた。裸足でステージに立っていた日々が、なんだか昨日のようのことに思える。

 

 

 

 

卑屈になんかならんでもいいのさ

肩こりと腰痛が酷く、マッサージや整体によく行くのだけど、気持ち良くても結局はその場しのぎでしかないので、やはり運動をするしかないと痛感している。夏はプールに通っていたが、冬となると着替えが面倒なので足が遠のく。

色んなマッサージ屋、整体を練り歩いているが、いつも受付で「この店で一番力が強い人を」という道場破りのようなお願いをしてしまう。ヤワな施術など望んでいない。ありったけの力で揉んでほしい。

先日「もう限界だ」と思って入ったマッサージ屋では、20代と思しき小山さんという男性が懸命に足を揉んでくれていたのだが、途中で鈴木さんという女性が入ってきて腕を揉んでくれた。その二人によって腕と足があらぬ方向に伸ばされているとき、なんかシュールすぎて吹き出してしまった。ヒーリングミュージックと衣擦れしか聞こえないような静かな店内で突然爆笑することは死を意味するので、咄嗟に「エ"エン!」と咳払いをして誤魔化したがバレているだろう。鈴木さんが去り、小山さんが渾身の力で首、肩を揉む。小山さんの親指がバキッと鳴って、気まずくなる。しばらく首のところを触っているなと思ったら、少しの間があり「少々お待ち下さい」と小山さんは去った。なんだろうと思っていたら「失礼します。責任者の坂口と申します」と言って坂口さんが入ってきた。「代わらせていただきますね」と、責任者の親指で首の筋肉を揉みしだかれる。さすが責任者、えげつない力である。痛すぎて一瞬呼吸が止まるが、耐える。身体全体を再度入念に揉まれ、四肢がバラバラになるかと思った。

 

先日人生初めての書評をしていただいたのだが、「自意識の化身である」という一言に膝を打った。その一文を目にしなければ、もしかしたら自覚のないままだった可能性が高い。その書評について詳しく言及すると、紙として刷った意味がないので触れないが、わたしが常に「自分だけの秘め事にひとりにんまりしている」というのは確かにそうだ。

 

妄想する癖がある。常に妄想しては、その世界に想いを馳せて一人ほくそ笑んでいる。

これだけ申すと「えっ!?あのエッセイやブログは全部嘘だったの!?」と誤解を招きかねないが、書いたものは全て本当である。いや、プライバシーを守るために、名前や地名は変えたりして多少濁したりすることもあるけれど、本当のことしか書いていない。たまに嘘みたいな出来事に遭遇するたびに「果たしてこれは現実なのか」とふと考えてしまうが、自分はそういう運命なのだとわかった今ではなんでもない。

 

とはいえ、妄想は誰でもするし、感情がある生き物として生まれたからには至極当たり前のことだと思うが、みんなどんな妄想をして日々過ごしているのだろう。

わたしはというと「自分が何者かになったつもりで暮らす」というテーマが常にあり、それを実行することに楽しみを見いだしている。ひとつのゲームだ。

 

普段、自分がどんな人物かと聞かれたら「雑」と答えている。雑なのだ、とにかく。何に関しても。細かいことが苦手で、計算も嫌だし計画も好きではない。そういう能力がそもそも備わっていない。「適当」という言葉が一番好きかもしれない。昔から気が変わるのが早く、思いつきで行動しているので、人間関係も流動的である。

そんな自分であるが、たまに何かを「演じる」ことに夢中になることがある。わたしはそのへんの一般人なので、ある意味普通に、細々と暮らしているのだが、だからこそ、自分が何者かになったつもりで過ごすのが楽しい。

 

たとえば。実は自分は殺し屋なのだと思い込む。もちろん殺したことがあるのはせいぜい虫ぐらいなのだが、凄腕の殺し屋になったつもりで生活してみるのはどうだろうか、とふと考えてみる。

不朽の名作「LEON」を何度も観ているせいか、その憧れが妄想となり、妄想が現実の暮らしに魔の手を伸ばした。殺し屋になったつもりで暮らすというのは、常人にはなかなか難しいので、取り急ぎ「LEON」と「コロンビアーナ」と「ニキータ」をお手本にする。

朝起きて「今日は殺し屋のつもりで生きよう」と思う。重ね重ねになるが、むろん人は殺さない。殺し屋の朝ごはんはどんなだろう。とてもストイックに違いない。でもちょっとおしゃれかもしれない。考えた結果、アイスミルクとシリアルにした。LEONそのものだし、別にいつもと変わらなかった。今日はゴミの日だからゴミを出したいと思う。しかし、殺し屋はゴミの日に律儀にゴミ収集場になど行かないだろう。ゴミ捨てを断念する。

殺し屋としての仕事について考える。ターゲットを指定しなければこの仕事は成立しない。依頼がくる筈だが、もちろんこないので、大学のときの嫌いな先輩を脳内で殺しておいた。

やおら筋トレを始める。体力が命の仕事。とりあえず鍛えておくかと腹筋と背筋と腕立て伏せを百回ずつやった。しかし、かなり疲れたのでそのまま布団でうたた寝してしまった。起きた時には昼過ぎで、殺し屋なのにうたた寝とはこれいかに、と自己嫌悪に苛まれる。こんなに呑気に構えていたら殺される側になる。とても反省した。

気を取り直して武器の手入れをしようと家中の武器を探す。使えそうなものといえば包丁と一升瓶しかない。家に不審者が侵入してきたらこれで戦うしかない。実際に不審者に侵入されかけたことはある。割と最近だ。一人暮らしは危険。

映画のように銃の手入れをしたいが、もちろん持っているはずもないので虚空を眺める。銃を持ってなくてよかったと常々思う。銃社会だったら既に撃ち殺しているであろう人々の顔が思い浮かんだ。現実世界で攻撃したことがあるのは痴漢くらいなのだが(必ず金蹴りか腹パンを喰らわせる)、もし銃を持ってたら埼京線で乱射していただろう。

 

気を取り直して、喫茶店へ読書をしに行く。殺し屋なので、いかに市民たちに職業を悟られないかが重要である。カモフラージュのために、ちょっとファンシーな出で立ちで家を出る。大きめの赤のセーターとミニスカート、白いタイツ。モコモコのトートバッグ。これはいかにも殺し屋っぽくない。バレないと思う。喫茶店でオーダーをする。本当はホットコーヒーが飲みたいが、いかに殺し屋らしからぬ飲み物を頼むかが鍵だ。迷った末、オレンジジュースと大きなパフェを食べることにした。組み合わせ的に微妙だったので後悔した。甘いものと柑橘系のジュースは合わないなと思う。喫茶店でせっせと働く店員たちを眺め、「呑気にパフェ食べてるけど、実は殺し屋なんだァ」と思う。読んでいる本も、図書館で借りてきた『バムとケロシリーズ』という徹底ぶりである。ちびいぬのヤメピというキャラがすこぶる可愛いのだ。これは殺し屋が読まない本だろう。しかし読んでいる。考えるだけで面白い。他の客である市民たちも、まさかわたしという人物が殺し屋とも知らずに優雅にコーヒーを飲んでいる。もし、いま突然店内に強盗が入り込んだらどうしようかと考える。わたしは凄腕なので、怯えて隠れるふりをしながら素早く厨房に忍び込み、熱したフライパンと大量の包丁で反撃する。テーブルの花瓶を投げるのもありかもしれない。去り際には窓ガラスをぶち破って派手に退店したい。脳内でイメージして、無事に三人の強盗をやっつけたので満足して店を出た。

 

夜、打ち合わせ。これは本当の仕事に関する(執筆の)打ち合わせなのだが、今日に限っては殺しの依頼を受けているという設定だ。編集の方を勝手に依頼人にする。依頼人に仕事を頼まれ「面白え話だな。1万ドルなら引き受けるぜ」と思う。もちろん脳内で。殺し屋なのでなるべく無表情で笑わない方針でいきたいのだが、雑談をしていたら普通に笑顔になってしまった。三マス戻る。

 

夜更けに帰路につく。夜道は危険だ。何度も振り返り、警戒をする。前方から男が走ってくるのが見える。刺されたらどうしようと思うが、よく見たらおじさんが柴犬とジョギングしているだけだった。普段なら「犬!」とリアクションするところだが、殺し屋なので、断腸の思いで無視をする。かなしい。

 

物憂げな表情でシャワーを浴びる。一番誰も見ていないので意味はないが、とりあえずやっておく。飲み物が欲しくなったのでコンビニへ行く。夜勤の相川さん(とにかく一つ一つの動作が早過ぎてビックリする)が今日もレジを乱れ打ちしている。雑誌コーナーのあたりで、足の親指みたいな顔のおじさんがぶつかってきて、舌打ちされる。おやおやと思う。殺し屋に舌打ちとはクソバカですねと一笑に付す。本当のクソバカはわたしなのだが、こうやって考えてみると日常の苛立ちも抑えられることに気付いた。相川さんが食い気味にわたしの手から「北海道チーズ蒸しケーキ」と「氷結りんご味」を奪い取りスキャンする。ナナコで支払う。なんでナナコのキャラクターはキリンなんだろうなといちいち考える。

家に帰りチューハイをズビズビ飲んでいたら、殺し屋だったことも忘れた。

 

閉店時間を過ぎたコインロッカーで洗濯物が乾くのを待っている。グオングオン。背中ごしに伝わる振動と、誰もいない空間のしずけさが心地よい。閉店時間に気付いたのは、店主と思しき男性が「奥の電気消してもいいですか?」と聞いてきたので、ハッとなったからだ。本当はもっと早く終わるはずだったのだがこんな時間になってしまった。洗濯するだけなのにトラブルが続いたのが原因。さあやりますかとコインランドリーに来たものの洗剤を忘れて一度帰り、洗濯物と洗剤を入れて今度こそ!と思ったら小銭を持ち合わせておらず(両替機もなかった)、千円を崩すべく近くのコンビニでソフトクリームを買ってペロペロ舐めながら洗濯をスタートしたら、すべてを見ていたお兄さんが「こいつマジか」みたいな顔をしていた。終了を告げるピーという音が、必要以上に長くて滑稽だった。残念ながら洗濯物は生乾きで、やっぱりチョコミントのアイスも食べたいなと思う。なんていうか、これが本当のわたしである。

 

 

 

 

 

 

永遠が欲しくって少し泣いてみた

ここはファミリーレストラン。かれこれ20分、料理がくるのを待っている。注文したのは、野菜がたくさん入ったスープと、チキン。安い赤ワインが空腹にしみる。プラスチックでできたグラス越しに店内を眺める。斜視乱視。店員は皆やる気がなく、しかしそれを責めるつもりは毛頭なくて、なぜなら時給千円なら妥当だと思うから。「研修中」というネームプレートを付けた店員は、全身武装した綺麗なOLだろうが、爪の長すぎるホームレスだろうが、平等に接客してくれる。テーブルの上のボタンを押す。33番が光る。ワインを追加して、オリーブ色の灰皿を恋しく思う。神様、わたくし、ヤニを喰らいたいのです。

 

本や映画や音楽って、それを受け止めるタイミングや時期によって捉え方が変わるし、響き方も違うから面白いのだと思う。子供の頃には到底理解できなかったことが、歳を重ねるにつれてやけに沁みたりする。些細な描写の意味もわかるし、追体験のように心に問いかけてくるものもある。だから、自分が好きな作品は何度でも、新しい気持ちで受け止めたい。

よく「また同じ本読んでるの」と呆れられることもあるけれど、他人にはわからなくていいから、一生大事にしていたい。そういうものがひとつあるだけで、生きる希望になると信じている。

 

 

「あとがき」が好きだ。

国語のテストでよく出てくるような「作者の気持ちを考えなさい」なんてことはどうでもよいが、本を書いた人が、どんな気持ちでその作品を生み出したかを知るのが、とても好きだ。小説でもエッセイでも、あとがきを読むだけでその作品の見え方が違ってくる。恋しさが募る。愛おしさが増す。大好きだ。

 

大学時代、ゼミの課題でよしもとばななの『キッチン』を再読した。何度も読んでいるし、と思ったけれど、単行本が見つからず、神保町の古書店で新潮社から出ている文庫を買った。

本編を速読して、ページを捲り、「文庫版 あとがき」という文章が目に入った。何気なく読む。

「感受性の強さからくる苦悩と孤独にはほとんど耐えがたいくらいきつい側面がある」

胸を突かれた。一瞬フリーズする。もう一度読む。感受性の、強さから、くる、苦悩と、孤独。ぶわっと、涙が出た。止まらなかった。泣き崩れた。

その頃は「感受性が強い」という自覚さえもなかった。二十歳くらいの頃で、東京での一人暮らしに浮かれ、毎日楽しいと思い込んでいる時期だった。いや、楽しいと思いたかった。憧れていた都会で華々しく、女子大生として暮らす日々のことを。しかし本当は、人間関係に苦しみ、常に不安を抱え、人の顔色を気にしては、呼吸が浅くなっていた。自分が美しくないこともわかっていた。そのことにずっと目を背けていたのに、唐突に現れたよしもとばななの文章に、寂しさを自覚した。しかし、それは自身を追い込むような凶暴な言葉ではなくて、やさしい何かに包まれるような気持ちになった。何もかも許されたようだった。その居心地のよさを、生涯忘れられないだろう。

 

27歳になった今でも、その一文が忘れられない。色あせるどころか、年々光を放つ。強く瞬く。同じような地獄を抱える人に教えたくなる。わたしは幸せだ。お守りのような言葉に出会えたことが。そういう仕合わせかもしれないけれど。

 

 

こだまさんの『夫のちんぽが入らない』は、単行本が発売されてすぐに購入した。あの頃は会社員で、ゆるやかに精神が病んでいたがその自覚がなく、Twitterの「裏アカ」で鬱憤を晴らしていた時期だった。リツイートか何かで回ってきた、「いきなりだが、夫のちんぽが入らない」という文章を読んで、深く興味を持った。本を買い、読む。読みやすい文体で、一時間と少しくらいで読み終わった。凄まじかった。想像していた物語ではなかった。女や妻としての負い目、教師としての苦悩、親との軋轢、ひとりの人間としての生きづらさが、一冊に詰まっている。読み終わった頃には重みが増していた。軽い気持ちで読むんじゃなかったと思った。

 

ほどなくしてわたしは会社を辞め、無職になる。病気だったんだ、と安心してのらりくらりと暮らす。診断書をもらっても、なんだか、ずるいことをしている気持ちだった。後ろめたさがいつでも付き纏った。実際にずるかったのかもしれない。わたしよりつらい境遇の人なんていくらでもいるのに、自分は限界だからもう何も出来ない、と嘆くことが。周囲からは腫れ物に触るような扱いを受けていたし、きっとわたしもそれを望んでいた。かわいそうな人になりたかった。そうでないと、生きていけないから。生きる価値がないと思っていたから。

 

 

こだまさんのことを調べているうちに、「文学フリマ」という文字が目に入った。応募してみる。知らない世界に足を踏み入れた。怖くはなかった。失うものは特になかった。

 

ブログを書いていたら、こだまさんに見つけてもらった。当時働いていた同僚のギャルに、こだまさんの本をおすすめした記事だった。そのギャルとわたしは対極の位置にいたけれど、職場が離れ離れになるときに本を勧めた。彼女はいつも、わたしが書いた「週報」を面白いと言ってくれる人だった。夫の仕事の都合で見知らぬ地に行く彼女に、お守りを持たせる気持ちで本を勧めた。後日送られてきたLINEには「勧めてくれた本、読んだよ。ちょー面白かったよ」と書いてあった。ジェルネイルやまつエクに熱心で、活字なんて縁がない人だったから、わたしにはそれがうれしかった。

 

同人誌を出し、クイックジャパンで記事を書く。わたしの書き手としての人生は、ほぼ、こだまさんの模倣だった。

憧れていた人と同じ道を辿ることで運命ぶるのはわたしの勝手だ。いちいち感動しすぎる。それが長所になることもあれば、短所になることもある。この通り、おめでたい性格だから、わたしはいつも、この日々のことをうれしく思っている。自分の人生を支えてくれた人と同じ雑誌、同人誌に書ける人生なんて、そうそうないじゃない、と。嫌われても好きだと思う。多分ずっと。

 

『夫のちんぽが入らない』の文庫版は、2018年9月14日に発行された。誕生日を目前に控えた、25歳のときだった。近所の本屋ですぐに買い、「特別収録 文庫版エッセイ」を読む。単行本のあとがき、途中から手書きの文字に変わるそれにも十分心を動かされたのだが、文庫版のほうが凄かった。

 

「ちんぽ」という言葉が入ったタイトルの本は、賛否両論のなかでも否定的な意見のほうが多かったのだと思う。タイトルだけで買わない、買いづらい、書店員も売りづらい、セクハラ、最低、メルカリで売りました。「ちんぽ」というたった三文字だけで、作家としての、作品としての命運をわけるのだから不思議だ。

 

文庫版のエッセイもまた、物語としてわたしの心に食い込んできた。本を出版してから、読者の声を聞いてから、夫に心の病を明かしてから。気軽に読むんじゃなかった。ファストフードの狭い喫煙席で、鼻水をすする羽目になるなんて。涙を堪える。目をかっぴらき、ごうごうと鳴るエアコンの風に、瞳の水分を吸い取ってほしかった。しかしそれはかなわない。

 

「ひょうひょうと生きているふりをしていたら、いつかそうなれるんじゃないかと思っていた」

 

無理だった。目に溜まっていた涙がボタボタっと本に落ちる。どんな気持ちでこの作品と向き合っていたかなんて、当事者にしかわからない。わからないけれど、心の隙間を見せられたようなこの一文の脆さが、一生わたしに寄り添うだろう、そう思った。

 

2019年の春、わたしとこだまさんは『でも、こぼれた』という合同誌に共に寄稿し、現在も同じ誌面に名を連ねている。わたしの気持ちはわたしにしかわからないから、他人の声なんてどうでもいいのだけど、これは奇跡のようなもので、もうこれだけで死んでもいいくらいうれしい。こだまさんの気持ちはわからない。どう思われているのか怖くなるときがある。でも、嫌われても構わない。憧れとはそういうものだから。

 

こだまさんとは、三回会ったことがある。主に文学フリマだ。三度目はQJ繋がりで、編集の方を介して会うことができた。会ったときにはもうすでにベロベロで、新宿の中華料理屋で、「こだまさーん!」とバカな小娘のような振る舞いで隣の席に座った。本当にバカになっていたので、トイレに行こうとして歌舞伎町を二十分ほど彷徨う失態も犯したが、距離的になかなか会えないから、酔った勢いで、好きなところを言った。

 

「ちんぽの凄いところ言いますね!いちばん安い指輪を選んで『貴かった』という綺麗な表現、出会い系のおじさんとの描写で『おじさんが紐持参、紐じいさん、ひもじい。心がひもじい』という言葉遊び…」

 

横並びに座っていたから、こだまさんがどんな顔をしていたかわからない。「ひもじい」という表現は、「東北」ならではなのかもしれませんね、というようなことを言っていた。終電を逃し、タクシーに消えた。それきり会っていない。

本当はもっと伝えたいことがたくさんあった。酔っぱらったバカ、というていでしか伝えられなかったのが、とても悔しいということを、こだまさんの共通の知人の方にこぼしたら「シラフで言えば、もっと喜ぶよ」と言われたのが強烈に印象に残っている。言えるだろうか。

 

好きなものが自分を構成する。

好きなものが自分のお守りとなる。

嫌いなものより好きなものについて話したい。生きた証を残したい。

 

真夏に待望の孫が生まれる両親に「よかったやん」と言った。それは、自分が産まずとも、親孝行をしてくれる兄への有難さの気持ちが存分に含まれていた。正直、助かった。

「うれしいけど、でも、自分の娘が産んだ子を抱いてみたいんよね」と母がこぼす。言えない。とても言えない。わたしはもう、生理も不規則で、結婚もわからず、子供が欲しいとも思わんくて、煙草も酒もやめられんし、だから、そういう幸せはあげられんのよ、と。結婚や妊娠という祝福がわたしを呪う。覆せるだろうか。それ以上のしあわせで。

 

ワインが渋くなった。空っぽの家に帰る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

愛とはなんだかわかりません

年配の夫婦が営む古ぼけた喫茶店で夕飯をとる。おじいさんのほうは柔和で、おばあさんのほうは一見きついが、決してやさしくない訳ではない。寒くてかじかんだ手をさすりながら、「すばる」2月号に掲載されていた小山内恵美子『花子と桃子』を読む。とにかく怖くて、いい意味で本当に気味の悪い小説だった。人間の、女の感情の機微の描写がリアルで、何度も血の気が引いた。やがて注文した料理が運ばれてくる。付け合わせのサラダのドレッシングがあまり好きではないが、生の野菜はありがたい。向かいの席には年老いた女性とその娘とみられる中年の女性が座っている。コーヒーを二つオーダーして、飲んでいるのだが、どうやらお母さんのほうは認知症の症状があるらしい。狭い店内で、何度も席を立ってはよろよろとトイレのほうに行き、ドアを開けて何かを確かめている。そのたびに娘さんがたしなめ、店の人に謝っていた。

「なにがそんなに気になるのよ」

「いや、誰かいるかも、しれないし」

「いたところで別になんともないでしょう」

大きなため息をついて煙草をふかす娘さんは、ちょっとやつれて見えた。かさついた髪の毛がバサバサとゆれる。

わたしと向き合う形で座っている老婆と目が合う。ニコっと微笑む。わたしも目を細める。「なに笑ってんだか」と娘さんがまたため息をつく。

食後の飲み物をもらう。紅茶と言ったのにコーヒーだったが、まあいいだろう。ミルクと砂糖は使わないですよと下げてもらう。煙草に火をつけてぼんやりと壁にもたれる。鹿児島に住む祖母のことを考えた。

 


わたしの出身は福岡県だが、本籍は鹿児島県魚見町に置いてある。これは数年前にパスポートを取得するときに気づいた。鹿児島には母方の親戚が住んでおり、やはり父方の親戚より遠慮無く接することができる。子どもの頃は帰省するのが楽しく、十匹超えの犬たちと遊んでいた。

母の母、つまりわたしの祖母は早くに夫に先立たれ、未亡人となった。胃ガンだったそうだ。おじいちゃんの顔はわからない。祖母は昔から洋裁が得意で、自宅の隣に工場のようなものをこさえて、服を作る仕事をしていた。その工場に行くと、工場のおばあさんたちがおいでおいでと構ってくれて、よく黒飴をもらったものだ。

南訛りのきつい祖母は、独特のイントネーションでわたしを呼んだ。

「まーちゃん?」

mee too、という発音に近いだろうか。

その声を聞くと、力が抜けたような気分になる。昔も、いまも。

 


八十歳を超えても元気で、自分のことはすべて自分でやり、町内会の運動会に出るほどエネルギーに満ちあふれていた祖母だったが、三、四年ほど前に祖母と母と叔母で神戸に行ったときに、突然具合が悪くなった。すぐに病院に駆け込むも、半身不随の難病に罹ってしまったようだった。あまりにも突然のことに皆戸惑い、入院や治療に専念していたが、もっと困ったのが、同時にボケてしまったことだった。

 

入院中にベッドの横に座っている叔母に、「恵子、あんた赤ちゃんはどうしたん」と祖母は言った。叔母は、自分の孫のことかと思って話を聞いていたが、それにしても話の辻褄が合わない。よくよく聞いてみると、叔母が三十年前に産んだ「赤ちゃん」の話をしているのだった。叔母は三人産んでおり、その末っ子は今日どうしてるの、と聞いていたようだった。記憶が何十年も前に飛んでいるようだった。最初は驚いて何も言えなかったが、大阪育ちの叔母は「赤ちゃん?あんたの足下におるがな」と適当に流すことにしたんよね、と笑っていた。わたしの母に対しても同様で「えっちゃん、あんたまーちゃんが生まれたばっかやのに、こんなとこ来てからに」と怒っていたそうだ。そんなふうだから、自分のひ孫を見てもあまり実感が湧かないらしく、いつも不思議そうに眺めているのだという。

 


鹿児島の祖母の家に二年ほど前に遊びに行ったとき、すでにボケていて、わたしの顔を見るや否や「えっちゃん、来たんね」と言っていた。母とわたしは目元が似ている。やがて奥から本物の「えっちゃん」が顔を出し、「お母ちゃん、ちゃうやろ」とツッコミを入れる。わたしは祖母の寝るベッドに寝転び、顔を近づけ、「誰ね?」とにやにやしながら訊いた。祖母はぷっと吹き出し、「まーちゃんかあ」と言った。「そうよー、ほら」と言って手のひらを見せる。隔世遺伝で、わたしの手足は祖母そっくりなのだ。祖母はあははと笑う。

「まーちゃんは、何歳なんだっけねえ」「わたし?いま、四十歳」適当なことを言うと、「へー!結婚、してたっけ」と目を丸くしていた。「しとるさ。夫が三人、子どもが十人おるん」と言ったところで叔母に「なんでやねん」とつっこまれる。アハハと祖母が笑う。

祖母のエピソードは本当に面白くて毎回爆笑してしまうのだが、銭湯の帰りに他人の服を着て帰ってきた話が特に好きだ。ちなみにこれはボケる前の話である。全身違うコーディネート、しかも違う靴を履いて帰ってきた祖母を見て、叔母と母は青ざめ、「早く戻って返してこんね!」とこっぴどく叱ったが、当の本人は「これでいいんじゃないかな~」と抜かしていたそうだ。全然よくはない。他にも、買い物に行こうとバスを待っていたら、全然知らない爺さんと何故か意気投合して、買い物に行かずカラオケデートに興じたこともあるらしい。到底理解できへんわあ、と嘆く母たちではあったが、その一方で「マリにそっくりや」と口を揃える。大雑把で適当で脳天気。確かにそうかもしれない。わたしも何故かよく知らない人についていってしまう。いつも、危険より興味が勝る。これも隔世遺伝なのだろう。祖母がわたしを忘れる日は、くるのだろうか。この手のひらの形と、サイズの小さい足を見せれば、思い出してくれるだろうか。

 


昨年の正月に長兄が電撃結婚を発表して、たいそう驚いたのだが、今年の正月はなんと次兄の電撃結婚を聞かされた。一年のうちに二回も兄弟の結婚式があるなんて忙しい。次兄はとてつもなく激務で、それは同じ血が流れる者として誇りではあるけれど、いつ死ぬかわからない仕事なんて本当は怖い。子どもの頃から、兄たちがなんとなく普通ではないのはわかっていた。勉強もスポーツも人並み以上にこなす二人のことを、「あの○○くん」と大人は呼んだ。それが無能な自分にとってコンプレックスだった時期のほうが多かったけれど、いまはただ尊敬している。

 

とても乾いた家庭だと思う。文章やコラムだけ読んだら仲の良い、温かい家庭に見えるかもしれない。しかし、この年になるまで不和が多く、会話すらままならなかったのが現実であり、大人になったいまでも、おしゃべりな母がいなければ全員黙りこくってしまう。冠婚葬祭以外では連絡をとらず、兄弟全員が大学進学を機に実家を出て、離ればなれの場所で生活をして、精神的な距離も遠かった。個として生き、近寄ることもなくそれぞれの人生を歩んできた。知らないことのほうが多い。知らせていないことが、多い。わたしはどんな風に見えているだろう、とよく考える。四年制の大学を出て、就職した会社を二年で辞め、東京でのらりくらりと暮らしているわたしは、失敗作のようなものではないか。結婚も妊娠もしない、酒と煙草を好む長女は、九州ではとっくに淘汰されていただろう。

 


去年のお盆に帰省したとき、義姉と深夜に飲み交わした。

「マリちゃんはなりたいものとかあるの?」

缶チューハイを片手に視線を落とす。何も言えない。すこしの沈黙。

「就職、してた時期もあるんやけどね…なんか、色々あって病院で検査したら、ちょっと普通ではないみたいで、多分定職にはつけんのよね。なりたいものかあ、わからんねえ」

適当に濁したものの、恥ずかしかった。出来損ないを、病気のせいにした自分が。

義姉はとてもやさしい人で、

「いいよいいいよ、まだ若いんやから大丈夫!」

とわたしを励まし、流れる涙をハンカチで拭ってくれた。

風呂上がりの母が、短い髪を拭きながらソファーに腰掛ける。いつからそこにいたのか、ぽつりぽつりと義姉に話し出した。

 


「マリはね、変わっとるよね。ほんま昔っから。何するかわからんけん、小さいときは、いつもお兄ちゃんたちが後ろから着いていっとったなあ。親バカやけど、この子は才能あったと思うよ。絵もうまかったし、音楽も得意だったし、芸術的っていうん?そういうんはあったねえ。でもね、普通じゃないことって怖かったんよ、わたしたち夫婦にとって。どうにか普通にしたかった。だから何度もぶつかったし、この子の可能性をねじ曲げてきたんよ。わたしたちがそんなことせんで、のびのび育ててたら、今頃どんなんになってたんかなって、いまでもたまに思うんよ」

 

 

 

「ほな、寝るけんね」

シャンプーのにおいを残し、母は寝室へ向かった。

いまわたしは東京で好きなことしてるんよ、ほら、いちばん好きだったこと、お母さん褒めてくれたことよ、と言えたら、どんなによかっただろう。多分ずっと言わない。言えない。誰も傷つけたくない。家族に恥をかかせてはいけない。ずっと黙っていよう。かくしごとかくしごと、しあわせ?

 

 

夏に新しい命が生まれる。

次兄の結婚や待望の初孫に、いま両親はうれしい悲鳴をあげている。

人生が、動いてゆく。生活はよどみなく進む。駅前のコンビニでビールの空き缶を潰した。

光を纏い、春を待とう。

 

 

 

 

 

 

 


 

悩んでなんかないわよね

「どこへ行ったの どうして泣くの 夢は叶えるものよ」

人生に絶望していたときにスーパーカーの「DRIVE」を聴いて、杉並のアパートで号泣したことがある。夢だの希望だの愛だの、そういう平凡な言葉はどうでもよかったし、聞き飽きていたはずなのに、なぜかこの一節だけは特別だった。どうしてわたしはあんなに泣いていたんだろう。

 

「忘れてなんかないわよね、ちょっぴり夢に疲れただけでしょ?恐れてなんかないわよね、ちょっぴりあなたが弱いだけでしょ?」

 

揺らぎそうになるたび、フルカワミキの声が、石渡淳治の言葉で、檄を飛ばしてくれる。

 

 

fmmzkさんに会った。

というのも、fmmzkさんは下北沢B&Bで開催されたトークイベントのために上京されていて、「僕マリさんの働いてる喫茶店に寄って帰ろうかと」とDMが届いたのが事の発端だった。

しかしわたしは出勤ではなかったので、「もしよかったらお茶しませんか」と勇気を出してお誘いしたら、快諾してくださったので、ご一緒するに至った。最初、返事がこなかったので「キモがられている」とかなりしょんぼりした。わたしはコミュニケーションの取り方、人との距離の取り方が壊滅的に下手くそなので、基本的には「待ち」の姿勢だが、こんな機会もないだろう、と思ってエイヤっと誘ってしまった。

 

お茶する前日、つまりトークイベント後にご挨拶をして、福岡のお土産をいただく。「じゃあまた明日〜」と別れ、ひとり帰路についたのだが、イベントで全然うまく話せなかった事、考え過ぎて精神的に限界を迎えていた事で途中で無理になり、タクシーを拾って帰った。

「気にしすぎ」とよく言われるが、だからといってそれが直るわけではない。お金を払って来てくれた方の為になるような話をできたか微妙だったし、途中で意識が飛んでしまって「いま何の話してましたか」と聞いてしまう一幕もあり、挙げ句の果てに一人でゲラゲラ笑う奇行に走ってしまい、とてつもなく死にたくなった。つらかった。

 

化粧だけ落として眠剤を流し込み寝て、翌朝起きてfmmzkさんの「起きました。9時41分着です」というDMを見て慌てて風呂に入る。

 

駅で待ち合わせてわたしが働く喫茶店へ。同僚におはよ〜〜と挨拶をしてfmmzkさんが座ってみたかったという席へ。

 

そもそもわたしがfmmzkさんと相互フォローになったのは『でも、こぼれた』の感想のブログを見てからだった。それまでは「Twitterの面白い人」という印象だったが、ブログをしっかり読むと人物像に興味が湧いた。

書いたものに関しては、基本的にどんな感想でもうれしいけれど、fmmzkさんの感想は解析的な観点と持ち前の文章力が作用して、なるほど…と思って何度も読んだ。

『健忘ネオユニバース』が、たとえ千人に無視されたとしても、fmmzkさんがあのブログを書いてくれたなら、わたしは書いて良かったと本気で思う。

 

名刺を渡してお互いの素性を明かし、昨夜のイベントの感想をいただく。

「マリさんの、『このままでいい』という言葉、よかったです」と言われたとき、静かに驚いた。イベントの締めの「これからどうなりたいか」という問いに答えた言葉だった。

 

不意打ちの問いに思わずぽろっと出た言葉だが、しみじみ考えてみて、わたしはいま置かれている状況をうれしく感じていると気付いた。

狂った喫茶店でやさしいみんなと働く生活も愛しているし、「僕のマリ」として同人誌やネットプリント、商業誌で文章を書く人生だって手放したくない。だから、このままがいい、と思った。

 

ふいに放った言葉を、fmmzkさんはしっかり受け止めて解釈してくれていたことに感動した。わたしが彼に会ってみたいと思った直感は間違いではなかった。

わたしとfmmzkさんは年が11歳離れているので、ある意味あまり気を遣わずに話をすることができた(むろん、相手が気を遣ってくださっていることに甘えていた)。会話というより対話だったな、と思う。

 

お茶をしている途中で、常連のドッスン(スーパーマリオに出てくる岩の敵に激似のおじさん)が他の卓の花瓶を倒していて水がパシャーとこぼれて、fmmzkさんがその卓のおばさんに「大丈夫ですか!?」と声をかけていてやさしかった。わたしは店員なのに何もせずケラケラ笑っていた。ドッスンの顔がめちゃくちゃすごくなっていたから。

 

fmmzkさんの飛行機の時間があるので早めに店を出て、駅前でしばし話す。「日なたに行きましょう」と暖かい場所を勧めてくれて大人だった。

 

別れ際、「とにかくおじさんは応援してるからね」と声をかけていただき、改札前で握手をした。帰って寝転びながら「今日の自分キモくなかったかなあ」と考えていたら、「お友達になりましょう。妻のことが大好きなので友達止まりですが」というLINEが届き、目を細めた。心が大丈夫になった。

 

 

 

 

 

 

 

思い出になんてなんないで

文学フリマ東京が終わった。
昨年の春に出店するまで存在すら知らなかった文学フリマが、いまやわたしの人生の一大イベントとなっている。本を愛し、本を書きたい人たちの慈しみ。書き手と読み手が運命のような出会いを果たす、夢が詰まったイベントだ。

いつもいつも慌てているのだが、今回も日付が変わるまで作業と準備が終わらず。新刊の入稿はすでに済ませ、あとは当日を待つのみだったはずが、「新刊を買うためだけに来てくれる人がいたら忍びない」という自意識の高さゆえ、書き下ろしのエッセイを頒布することにしたのだ。わたしはいつも、イベントがあるたびに「その日配る用のエッセイ」を書いている。気の利いたノベルティを作ることや 、面白い会話が出来ない申し訳なさで、いつもエッセイを書くことに帰結する。不器用なのだ。

 

深夜に寝て四時に起きて準備。雨音を聞きながら熱いシャワーを浴び、荷物をまとめる。毎度ながら、花や花瓶などのどちらかといえば不要なものが多いので四苦八苦。重たい荷物を抱えて家を出る。雨は止んでいない。

 

会場には九時すぎに着いた。モノレールに乗るときはスーパーカーを聴くのがわたしの儀式だ。窓から見える水面がきらきらとしていた。
出店者の入り時間は十時からだったが、不安すぎて「鬼早いですが九時半に駅集合で」と、新刊の版元であり売り子をやってくださる本屋lighthouseの関口さんにお願いしたのだ。 わたしたちが会うのは三回目。人見知りを発揮しないか不安だった。
一本早い電車で来たが、関口さんも同じ電車だったようで無事落ち合う。
「僕、雨男なんです」とこぼす関口さんだったが、ちょうどそのタイミングで空から光が差し込んだ。まばゆかった。

 

出店者の列に並び、雑談や打ち合わせをする。
途中で同じ出店者のサウナ男子二人と半年ぶりに会う。ブタゴリくんとおひやさん。東北と名古屋からの参戦である。思わず顔がほころんだ。
三十分以上早く着いたが、なんだかんだであっという間に入場時間になった。

設営にはかなり手間取った。わたしはこだわりが強すぎて、敷き布の幅とレースのズレが気にくわなくて十五分くらい難儀していた。 普通のひとだったらキレられても仕方ないほどモタモタしていたけど、関口さんが鷹揚な性格で命拾いをした。今回は日記集の相方、伊藤佑弥さんとyoeさんと隣接配置。やはり知っている方が隣だと精神衛生上いい。反対側には早乙女ぐりこさん。『 東京一人酒日記』が気になったが、すぐには言い出せず。
なんとか設営完了して、十時四十分くらいにお手洗いに行った。女子トイレは混んでいて、出てきたら十時五十二分。再び会場に入ろうとしたら、運営の人に「開場十分前は締め切っています、一般のお客様と一緒に入ってください」と言われて絶望。この長蛇の列に並ばねばならぬのか。再入場するたびに使う、出店者である証のカタログを見せても「入れられません」の一点張りだった。困っていたら同じ境遇の人が何人かいたようで、たちまち運営の人にブーイングが上がった。
「なんのために出店者にカタログを配っているんですか?」「ブースにお金置きっぱなしなんですよ」「女子のトイレはすごく並んでたんです!」とちょっとした騒ぎになった。わたしは「遺憾です」 といった顔をしながら、関口さんに「締め出されました、うける」 とDMを送ろうとしていた。その間にもみんなキレ散らかしている。出店者のあまりの剣幕に運営側も負けたのか、五十八分くらいに入れてもらった。 

 

慌てて仮面をつけて着席。諸事情がありいよいよ顔を出せなくなった。わたしごときが顔見せNGなんて生意気に思われただろうが、 以前イベントで盗撮されてツイッターにあげられたり、住んでいるところを教えて欲しいとメールが来たり、DMで粘着されたり、実は散々な目に遭っている。面倒くさいので顔は出しません。

 今回は「僕のマリ」ブースというより「出張本屋lighthouse」といったほうが正しかっただろう。関口さんがiPadを使ってお金の計算と売り数を打ち込んでいた。
寄稿させていただいた『つくづく』の刊行人・金井さんが見えて、今度下北沢B&Bで開催されるイベントのチラシをくださったので 「ありがとうございます!バイト先に置きますね!」と言ったが、 ブースに置いて宣伝する用だったことに三時間くらい経ってから気づく。わたしは何がしたいのだろう。恥ずかしくて死ぬかと思った 。
イベントは緊張するけれど楽しみです。みなさまふるってお越しください。 


文学フリマが始まるまで、『まばゆい』が売れなかったらどうしよう、という不安がかなり強かった。今回は本屋lighthouseに初めての版元になっていただき、 写真も品子にお願いして何度も撮り直した。気持ちを込めたぶんだけ、楽しみより恐怖が勝った。こんな気持ちになるのは初めてだっ た。夏が終わった頃から、八キロ痩せた。
『まばゆい』は題字だけで内容がわかる本ではない。名前だけで手にとってくれる人がいるほどの知名度もわたしにはない。純粋に「 文章」のみで挑んだこの一冊が、売れない可能性は十分にあったと 思う。もちろん、売れる、売れないがすべてではない。しかし、 暗い部屋でひたすらに書いたこの祈りが誰にも届かなかったら。そういうことを考えるたび、 心臓のあたりがきゅっと冷えた。

開場してすぐに、新刊を求めてブースに来てくださる人がいた。知ってる顔も知らない顔もあった。列が出来ていた時には涙が出そう だった。お礼を言って、挨拶を交わして、 握手を求められたらぎゅっと握った。あまりの体温の低さにみんな驚く。ひとりひとりの顔を、表情を、見逃さないようにした。素顔だったら人と目をあわすことすら苦手だが、仮面のおかげでそれができた。「部数限定」とアナウンスしたのを気にして、自分のブースを空けて買いに来てくださった女の子たち。ずっと応援していた作家さん。ずっと応援してくださっているファンの方、友人たち。
 昼下がり、『まばゆい』は完売した。最後の一冊は下北沢B&Bの内沼晋太郎さんの手に渡った。

完売で深い安堵に包まれたが、タッチの差で買えなかったお客さんの顔を見ると申し訳ない気持ちでいっぱいになった。それでも「 応援しています」と声をかけてくださった方が何人かいて、早めに 帰ろうと思っていた気持ちがふっとんだ。新刊の感想をさっそく伝えに来てくれた青年もいた。生の声を聞けて、感無量だった。
ブースに一度立ち寄った女の子に「新刊は売り切れたんです」と伝えた。目がぱっちりとした、かわいい子だった。書き下ろしのエッ セイを渡し、若干数の通販があることを伝えると、彼女は去った。 しばらくして、またわたしのブースに来て「すみません、どうしてもお話してみたかったんです」と震える声でこぼした女の子は、 涙を流していた。わかるよ、と言いたかったけど、バッグのなかで くちゃくちゃになっていたティッシュを渡すことしかできなかった 。
今年、自分が大好きな作家さんとお話する機会に恵まれた。ずっと雲の上だったような存在の、自分のお守りになるような本を書いた人たちに初めて会ったとき、言葉より先に涙が出た。 わたしにとって東京は、それがかなう場所だった。
彼女は真っ赤な目で、ブログは全部読んでいる、本もすべて持っている、イベントにもずっと行きたかったけれど日にちがなかなか合わなくて、と一生懸命話してくれた。自分のことをこんなに応援し てくれる人がいることを知って、書いててよかった、と思った。
わたしが強くいることが、応援してくれる方への恩返しだと思う。

 

落ち着いたので店番をお任せして、自分の買い物をした。あまり買いすぎないようにしよう、と思っていたのに、気づいたら両手いっぱいに買っていた。安達茉莉子さんのブースでご本人にお会いでき て、即興のメッセージつきサインをいただく。宝物ができた。お友達のPARTYとmannさんの短歌集もゲット。岡山からいらしたmannさんに 「この前のツイート面白かったです」と伝えたが、多分わざわざ文学フリマで言うことではなかった気がする。餅井アンナさん、 飯塚めりさんのブースで雑談。うれしい。でこ彦さんに取り置きを 頼んでいた新作を受け取り、まだ読んでいないのに緊張。 連載の感想を伝えたかったのに、うまく言えず。はやく読みたい。 そのほかにも色んなブースに伺った。みなさんやさしくしてくださりありがとうございます。財布の有り金が尽きたので関口さんを恐喝して二千円借りた。町屋良平さんが寄稿されている合同誌が絶対に欲しくて終了十分前に慌てて買いに行ったら、 ブースにまさかのご本人がいらした。緊張したが、 サインもいただきうれしかった。挙動がおかしくなっていて不気味だったと思うので猛省。町屋さんの新刊の感想は改めてブログに書く。

 

こだまさんが寄稿されているので、絶対に手にしたいと思っていた 『生活の途中で』が完売で肩を落としていたら、寄稿者である久保いずみさんがブースに来てくださった。実は共通の知人がいる、 という話で盛り上がる。『生活の途中で』が欲しかった、とこぼしたら「汚れていて、ミワさんが売りたくないと言っている 一冊ならあるので、確かめてきます」とのこと。わがままを言って買わせていいただいた。大切に読む。

 

汗だくで終了時刻を迎えた。この日、天気がよかったのと、雨上がりの湿度と会場の熱量でとにかく暑く、冷房をつけていても汗をかくほどだった。セーターの落とし物のアナウンスに、伊藤さんとくすくす笑った。
いままで売り子は友人の女の子に頼んでいたのだが、今回初めて男性に頼んで、かなりの厄除け(言い方失礼)になることに気づいた 。アドバイスおじさんや粘着してくる人がいなかった。これは本当 にありがたい。トラブルなしで終われてほっとした。

 

撤収してから、生湯葉シホさんとyoeさんにお声がけいただき、 関口さんと四人で打ち上げ。店番中は水分を摂るのもやっとだったので、空きっ腹にお酒を流し込んで無事死亡。座ったまま事切れてしまった。このあたりから記憶を失っている。LINEで品子に「 完売した」という旨を送ったが、誤字がすごかった。どうにかこうにか最寄りにつき、いただいた花束を抱えて帰宅。うれしいメッセージをたくさんいただき、満たされた気持ちで眠った。

 

『まばゆい』は11月30日土曜日の正午から、「若干数」の通販 と(冊子は本当にわずかです)、PDFでのデータ販売(無限) が行われる。版元であるlighthouseさんのツイッターをチェックしてください。

「ある日、嫌いな常連の訃報で爆笑した」 という最低の書き出しで始まるエッセイも、通販ぶんに封入予定です。二百部以上刷ったけどなくなった。自分で書いたのに読み返すたびに噴き出している。

 

最後に、来てくださったみなさま、本当にありがとうございました。
来年は地元福岡、ソウルメイトが住む大阪の文学フリマにも出店したいです。

街頭のネオンが瞬いていて、冬がやってくるのを感じる。
雨の降る夜、高円寺の七ツ森にて。春を待ってる。

 

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好きだけど愛せやしない

真夏でも氷のようにつめたい手足が、いま、感覚を失っている。熱い湯を沸かしながら部屋のオレンジの光をつけて、何度も何度も聴いたギターの音をなぞる。入浴剤はラベンダーがいい。淡いむらさきの色が好きだから。

 

私小説『いかれた慕情』を出してから一年が経とうとしている。執筆から入稿まで三週間で仕上げたあの同人誌は、全部書き終わったあとにタイトルを付けた。

この一年は本当に激動の年だったように思う。知り合いも増えたし友だちもできた。自分のなかに眠る暗さや激しさ、核のようなところをわかってもらえる人なら、歩み寄る勇気も出た。

 

あれから一年、今回また「僕のマリ」名義で一冊新刊を出す。自分ひとりだったら出来なかったかもしれない。書くことは好きだけど、「形にする」ことが悉く苦手だった。そんなときに千葉の本屋lighthouseの店主、関口竜平さんから声をかけていただき、新刊を作るに至った。

 

わたしと関口さんとは二回しか会ったことがない。初めて会ったのは今年の春の文学フリマ東京だった。ブースに来た青年が、にこにこしながら黒い名刺を渡してくれた。サークル「藪」の打ち上げに彼も同席していたが、喫煙者は隅のほうで固まっていたので会話はしていない。ただ、爪切男さんの計らいで、わたしの「先生」のような存在のこだまさんと向かい合ったとき、思わず涙が出たのを、彼はしっかりと見ていた。

 

後日、DMで「僕と一緒に恥をかきましょう」と言って、lighthouseでわたしの作品を取り扱っていただくことになった。「わたしは一生、恥をかき続ける」という一文は、『いかれた慕情』のあとがきに寄せたものだ。笑われるだろうか。この青さすら、わたしはかけがえのないものだと思っている。

 

新刊『まばゆい』には小説とエッセイを寄せた。文量としては、『いかれた慕情」とあまり変わらないはずだ。

小説なんて、一から話を作るなんて、わたしには出来ない、ずっとそう思っていた。

そんなとき、自分で書いたコラムを読み返した。「書くことは、自分が自分でいられるためのたったひとつの魔法だった」という一文を読んで、初心に立ち返った。

 

ずっと空想のなかで生きてきた。

共働きの両親のもとに生まれ、幼いころから転校や引越しを繰り返し、兄弟とも年の離れたわたしは、ひとりでいることが多かった。物心ついた頃から音楽や本が好きだった。「対話」が苦手な子供に育ち、ずっと空想に耽って過ごした。

 

「もしも〜だったら」ということを、いつもいつも考えていた。もしも歌手になれたら。もしも一人っ子で親に構ってもらえたら。もしも魔法が使えたら。

そんな「もしも」は、読み書きできるようになった年頃から、物語として紡がれていった。学習机の一番うえの鍵がついた引き出しには、小説とも日記ともいえない文章が書かれたノートをこっそり仕舞っていた。学校から帰ってきたら書いて、読み返して、また空想の世界に戻る。わたしがぼーっとしていたのは、こっちの世界にいなかったから。

 

ふいにその時のことを思い出した。

わたしの小説には謎解きもなければ魔法もない。ハラハラするような展開もなければ、ドラマチックなラストもない。それでも、書きたいことを書いたら、「ほんとう」のことだけが残った。

処女作の『ばかげた夢』がそうであったように、感覚を頼りにして書いた作品を、どうか誰かに読んでほしいというのは、おこがましいだろうか。

 

エッセイのタイトルが空欄になっているのは、ぜひ読んでから理解していただきたい。

 

『まばゆい』という短編集を作るにあたり、表紙の写真を品子にお願いした。

彼女が手がけた写真集「街の灯」を見たときに、見つけた、と思った。彼女とはまったく違うコミュニティで出会ったので、お互いに表現をしていることはずっと話していなかった。ある日、ふと渡された写真集を見ていたく驚いた。それは静かに宿る熱を感じる作品だった。

作品のタイトルに共通する光、その光を求めて品子と写真を撮って歩いた日のことを多分忘れないだろう。

 

表紙の、足元がおぼつかない人影はわたし自身。まだまだ不安定な自分、正体不明の存在、その光と陰を見事に写した一枚だと思う。品子ありがとう。

 

 

当日はブース【テ-43】に関口さんとふたりで立つ。『まばゆい』は処女作と同じ部数しか渡らない。この冊子の増刷はない。

最後に、「誰かのお守りになるような本を作りたい」と言っていた関口さんとコンビを組めたことを、光栄に思う。

 

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